戦争に対する暗澹たる思い
ぼくが若い頃(19歳の時)からずっと大事に思っていることの1つに、
というのがある。簡単に言えば、
みたいなことだ。
たとえば、「数学の先生が嫌いだったので数学が嫌いになった」みたいなことがよくあるが、この場合、イヤなのは先生の性格であり、数学に罪はない。こうしてイヤな先生のせいで、無実の数学がとばっちりを食っているのが、思考と感情をごちゃまぜにしている状態である。
「こういうことをなるべくしないようにしましょう」と言っている人は世の中に多くて、たとえば美輪明宏さんは
みたいなことをよくいうけど、これは「感情に流されないで判断しなさい」ということなので、同じことである。
とはいえ、「わけて考えよう」などと思ってスッとやれるほど簡単なことではない。先生を憎らしく思う気持ちが数学にまで移っていくのが人情というものである。
僕のやり方
ぼくだって、いつもいつも数学と先生を分けて考えられるわけではないのだが、それが大事なことだと思っていたので、訓練はやってきた。
具体的なトレーニングのやり方についてはすでに書いたことがあるのだが、簡単に書いておくと、まず思考と感情を
などと思って分けられるものではないので、そんなムリなことはしない。そうではなくて、
ということだけをやる。
数学のばあいなら、「数学が嫌いだ」という自分の気持ちを、否定したり、無理に変えようとするのではなく、その心の動きをただ眺める。そして「なんで嫌いなんだろう」という風に考えてみる。そうすると
という風にわかるのである。わかったからといって、それで数学を好きになれるわけじゃないけど、いたずらに「嫌い」という気持ちに振り回されるのではなくて、
と受け止めつつ、そういう自分をそれ以上、批判も否定もしないでただ受け入れる。とうぜん、数学は嫌いなままである。
こうやって自分のこころのうごきを、パレットの上で絵の具が混ざっていくのを見ているように、ずーっと眺め続けるわけだ。
そうしていると、だんだんと「今の自分の感情の色合い」がどう混ざり合って出来上がっているいるのかがわかるようになり、すこしずつ冷静になっていくものなのである。
1か月や2か月でどうなるものでもないのだが、ずーっとやっていれば、すこしはましになってくる。ぼくの場合は、19歳の時にこれをやり初めて、いちおうの区切りをつけたのが2004年の2月28日だったので、15~6年はかかっている。
そこまでやれとは人に言えないけど、折に触れてそういうことを意識していれば、「あまり感情に振り回されないで済むようになりますよ」ということを言いたい。
頭の痛いブログ
さて、ここまでは前置きで、では具体的に感情と思考がごっちゃになっている厄介な例を挙げてみたいと思っていたのだが、長くなってきたのでサクッとやろう。
名前を出して活動している人なので、あえて名前を出してしまうけど、作家の山本甲士さんというという人のブログである。
なぜ山本さんかというと、知人が「彼の小説がおもしろい」といっており、既刊はすべて読んだので早く新作を書いてほしい、といっていたので、そこまでおもしろいなら読んでみようかなと思ったついでにブログを読んでみたのである。
ちなみに山本さんの作品は一冊も読んだことはないし、したがって、以下の記述で、作家としての資質をうたがう気はない。そういう「熱い人」だからこそ書けるいい作品もあるのだろう。
あくまで山本甲士という作家の書いた「ブログ」に限っての「頭の痛い話」であるということは強調しておきたい。
頭の痛い「スティーブン・セガール」
たとえば、今年の5月1日に映画評が載っており、
と書かれている。
さきほどの数学教師と数学の話を当てはめるなら、セガールの政治的発言を「大嫌い」になることと、彼の作品を見る・見ないは別の話なのだがごたまぜになっている。
もちろん、世間にはこういう人がわんさかいて、たとえば、プーチンが気に入らないからといって、近所のロシア人に嫌がらせをする、みたいなことをする人は数えきれない。
しかし、作家という影響力のある商売をしている以上、世間の感情的な動きを止める側に回ってほしいのだが、
では、火に油を注ぐ行為であり、一般に「ポピュリスト」と呼ばれる言動だ。
さて、こうやってすぐに「大嫌い」になったりする人は、なんにつけ裏付け調査を怠ってカッとなることが多い。
そのあたりの経緯を確かめないままで「カッとなっている」ということは、元々のウクライナイ戦争に対しても、その程度の浅い理解しかしていない可能性が高い。日本のテレビで報道されていることをそのまんま鵜呑みにしているのだろう。
もちろん、知らないなら知らないでもいいのだが、作家なのだから、せめて
くらいのリテラシーを求めても罰は当たらないだろう。
頭の痛い「ジョン・ウィック」
これだけだとスルーしてしまう所だったのだが、すぐその下にキアヌ・リーブス主演の『ジョン・ウィック パラベラム』の評が載っており、あまりにあまりだったのでちょっと取り上げる気になった。(ちなみにジョン・ウィック評は4月20日)。
まず、敵の数が多くて「全くハラハラせず。」とあり、名作「ジャッカルの日」のように
とある。ちなみに『ジャッカルの日』は、シャルル・ドゴール大統領の暗殺を試みる殺し屋ジャッカルが、国際捜査網をたくみに潜り抜け、最後に一発の弾丸を撃つ話である。
一方のジョン・ウィックは、相手に飛びついて、腕ひしぎ逆十字をかけて倒してから、2発3発と顔面に撃ちこむのであり、「マカロニ格闘アクション」であり、ごった煮のおもしろさであり、やろうとしていることが全く異なる。過去に、格闘術とガンアクションをこれほど一体化した映画というのはなかった。
監督のチャド・スタエルスキは元格闘家で、このアクションを演出するにあたって10種類くらいの格闘技をミックスしているのだそうだ。
このように作り手が「新しいマカロニ」をやろうとしている意図を理解したうえで、そのマカロニの出来具合をほめるなり、けなすなりするならいいが、
では、志村けんさんのバカ殿様に対して、
と言っているようなものである。
暗澹たる気持ち
たとえ作家でも「映画評くらいなら罪はない」といいたいところだが、戦争はどうなのだろう。
世間で一定の評価を得ている作家が、これほど世界の目を集めている国際問題に触れる際に、この程度の認識だということ自体に、暗澹たる思いに駆られる。
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