人間は歴史から何も学ばない
サイクルとは
「サイクル」とは循環という意味で、コトバンクによれば
とあるので、「ふたたび元の状態に戻るプロセス」が、サイクルだと言っていいだろう。わかりやすくいえば
のがサイクルである。
さまざまな「サイクル」
四季も「ある状態から一定の変化をたどり、再び元の状態に戻」っているのでサイクルである。
数学には循環小数というのがあるが、たとえばこういったものだ。
これも「1234」がくり返されるので、サイクルである。
サイクルは2つの要素から成る
さて、コトバンクの定義に再び戻ってみると、サイクルの定義は2つの要素から成り立っていることがわかる。それは
ことと
ことの2つだ。この2つは同じことを言っているように思えるかもしれないが、じつは根本的な点でかなり異なったことを言っている。
なぜなら①は「ちがうことを体験する」ことであり、②は「同じことを体験する」ことなのだから。
・・という風にやや抽象的な話題から入りますが、あとで具体的な話におとしこんでいくでもうちょっとお付き合いださい。かなり重要なことを言います。
人がサイクルに気づく瞬間
では人がサイクルに気づくのはどういった瞬間だろうか。ぼくが思うに、それは、②の「元の状態に戻った」ことに気づいた時だ。
たとえばあなたが山の中で道に迷ったとする。不安になったあなたは、あちこちに目印を置きながら進んでいく。そうやってあちこちさまよった迷った挙句にやがて、自分が最初に置いた目印の場所に帰ってくる。そのときに
とようやく気づく。いいかえれば「同じものをみとめたとき」が循環に気づく瞬間だといえる。
四季の例でいえば、冬に雪が降り、それから暖かくなってきて梅の花が咲いても、サイクルには気が付かない。やがて桜の花が咲いて、新緑の季節がやってきてもサイクルには気づかない。梅雨を経てセミがうるさく鳴き始めてもまだサイクルには気づかない。やがて木々が色づき、落ち葉がつもり、肌寒くなってきてもまだサイクルには気づかない。
しかし、ふたたび雪が降った時、そこではじめて
と気づくのだ。登山者が自分の置いた目印に出会うように「前の状態と同じ状態になった」ことをみとめたときにようやく人は一周回っていることを認める。
循環少数の例でいえば、
この状態では循環しているかどうかわからないが、次に
5.12341
と来て初めて、はじめて循環に気づくわけだ。
周期の長いサイクル
さて、四季や小数だけでなく、人の歴史や宇宙の動きにも、ある種の循環が伴っていることに異論のある人はいないだろう。
ただし、すでに書いたように、循環というヤツは、「同じものを認めた時」になるまで循環していることに気づけないという厄介な点がある。
そして、歴史の循環や宇宙の循環は、ほとんどの場合、人間の一生よりも1サイクルが長いので、一人の人間が
と気づくことはできない。ハレー彗星は75年に一度地球に接近するので、たいていの人は一生に1回しか巡り合うことができないように、歴史の循環も一人の体験の範囲内で繰り返しに気づくことはむずかしい。
一定の変化のパターンをたどっているにもかかわらず、それが一過性の変化にしか見えず、繰り返しが起こっていることに気づくことはできない。
仏教には「輪廻の悟り」というものがあるが、これもいわば「繰り返しの気づき」である。スパンの長いサイクルほど自覚するのは難しいので、だからこそ、ありがたいのである。
歴史の循環説
さて、世界史は510年のサイクルで循環しているという説がある。510年ごとに西洋と東洋の覇権が交代しているのだとする説を唱えたのはホイーラー博士という人で、気候変動を研究していてい偶然そのことに気づいたのだそうだ。
博士によれば西欧の覇権は1450年ごろから始まり、20世紀の後半まで続く。その後、覇権は東洋に移ると予測していた。1932年のことである。
知ってのとおり、近代西洋のフェーズに入る前はイスラム黄金期があり、その前には古代ギリシア・ローマのフェーズがあったので、いまのところは、博士の言う通りに進んでいるように見える。
だとすれば、日本はなるべく早いこと西欧中心のアタマづくりをリセットして、非西欧の視点に立った方がいいことになるが、かつてヘーゲルは
と言っていたし、日本人はもともと変化を嫌う国民性なので、歴史の転換点に差し掛かっていると考えるより、このまま自由と民主の発展へ向けてまっすぐ進むと思いこんでいたほうが都合が良いのだろう。だから、ギリギリまでアメリカと一蓮托生でいくのだろう。
ところでぼくはつい最近まで、ゴロゴロ寝て暮らしていたが、このところやたらフィジカルのアップに励んでいる。これも一過性の変化というよりは、人生で何度も経験済みのサイクルであり、人生の季節の変わり目を感じているところだ。
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