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発信力がなければやることがなくなる時代が来るだろう

ぼくが子供のころによく通っていた児童公園があり、当時はそこにうるさいおじいさんがいた。まいにち公園を掃除をしており、子どもたちが汚さないか監視していた。かれが平らにならしたグランドにぼくらがラインを引いてドッジボールなどをやると「汚れる」と文句を言ってきた。

当時はぼくも素直だったから「はいはい」と聞いていたけど、今にして思えばおかしい。公園はこどもが遊ぶための場所であり、おじいさんがきれいして満足するための場所ではない。

こないだ久しぶりにその児童公園を通過してみると、草ボーボーで子どもは一人もいなかったがひさしぶりにあのおじいさんことを思い出した。今でもそのあたりから出てきて文句を言われそうな気がしたが、ぼくが小学生の時にすでにおじいさんだったのだから出てくるわけはない。

さて結局、あのおじいさんがなぜあそこまで公園にこだわったかというとヒマだったと思うのである。ヒマだったから児童公園の管理人に勝手に就任してしまったのだろう。ちなみに今日のはなしは昔話ではなくてベーシックインカムについての考察です。

つい数日前までぼくはUBI(ユニバーサルベーシックインカム)には懐疑的だった。いろんな論点があるが、一番いぶかしく思っていたのは、はたしてヒトは衣食足りたのちに内発的な動機でそう活動的になれるものだろうかという点である。そういう人もいるにはいるだろうが、はたして国民の多数派がそうなるだろうか。日本社会はそこまで成熟しているのだろうか。

じぶんの父親という悪い例もあった。父は年金をもらってもずーっとテレビを見ているだけだ。UBIを支給しても彼のような人が増えるだけだろう。

しかし、その後、考えが変わった。つまりUBI賛成に変わったのだが「賛成・反対」というより、問題は別なところにあると思うようになった。

よくよく思い出してみると、父も80歳になるまではゴルフ場の芝刈りというパート労働をやり、それに生きがいを感じていたようである。完全にテレビの前から動かなくなったのは芝刈りを解雇されてからだ。ただし80代なので肉体労働で雇ってくれといっても難しい。

たまに草むしりやゴミ拾いのボランティア活動があるとイソイソとでかけている。だとすれば「勝手に公園管理じいさん」と同じでヒマをもてあましており、なにかをやりたいのだ。ただし、何をやるかとなった場合に父も公園じいさんも肉体以外に自己表現の手段を持っていないタイプなのである。ここが問題だ。

UBIを支給したら、たいていの人は寝転がるだけではなく何かを積極的にやりたくなるだろう。基本的な生活が保障されている以上、いやな仕事を無理やりやる必要はなく、自分に向いた方向へ自然に向かっていけるはずだ。そういう意味ではUBIの考え方は基本的にはいいものだ。

しかし、なにかを始めようとすればまずは企画&発信しなければならない。そのためにはあるていど自分を客観視してまとめる力が必要だ。つまり言語化である。そうおおげさなことではないが、それができない人は世間にかなりの数いると思ったほうがいい。父も何かをやりたいのだろうが肉体労働くらいしか思いつかず、あとはテレビを見るくらいしかできないのである。

高齢者もそうだが、若い人でもスマホしか使わずあとは友だちとなんとなーく非言語的コミュニケーションでつながっているような人がいきなりネットでまとまった発信をするのは難しい。

まだかなり先になるだろうがUBIが導入されれば、ネットでコンテンツを受け取るだけでなく多少とも発信できる力がなければやることがなくなるだろう。かつては「単純労働をするかテレビの前に座る」だけで社会に参画することができたが、それでは通用しない時代がすでに始まっている。

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