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不老長寿について

「これから人間はどんどん寿命が伸びていくんじゃないか」とか、「そのうち不老不死も不可能ではなくなるんじゃないか」とか、そういうことが近年話題になっている。

その議論を聞いていてなんか根本的な違和感を感じるので、ちょっと書いてみたい。大きな問題なので、論点を整理するのが難しいのだが、思いつくままに書いてみよう。

1点目:そもそも議論に意味がない

まず一つ目として、不老不死が可能だとか不可能だとか、そういうのは不毛な議論だ。

議論しようがすまいが、科学者はそちらに向かって次々に英知をしぼっていくだろうし、いろんなことがこれから明らかにされていくだろう。それは誰が考えてもそうである。

いいわるいではなくすこしずつ進んでいくのである。だからだまって見ていればいいのだが、わざわざそれを問題にし、議論を掻き立てていることに違和感を覚えるのは、一種の性急さを感じるからだろう。

それが次の論点につながるのだが、

2点目:加速させてもいいことはない

2点目の違和感として

自分が生きているうちになんとかしたい

という欲望を持っている人がかなりいるが、この性急さがおかしい。

1000年後になれば、おどろくほどの長寿が実現できているかもしれない。いまはそのための一歩目の研究が進められているのだと考えるならば、健全なことだ。

これからもくもくと基礎研究が続けられて、次の世代に託される。これまでも健全な科学はそうやってバトンリレーを続けて進んできた。ところが、

自分の生きているうちになんとかしたい

というのは、

一気に片をつけたい

ということであり、それはぜんぜん科学的な思考ではない。

たとえば量子コンピュータにも大きな未来があるけど、この分野の専門家によれば、量子コンピュータの開発競争をF-1レースに例えるならまだレース本番が始まっていない状態だと言う。

よくF1にたとえるのですけど、まだオープニング・ラップぐらいで、スタートすらしていないと思います。

量子コンピュータの最先端にいる研究者で、自分の代で成果をもたらせると思っている人はいないはずだ。みな、次の世代に託している。

このたとえを不老不死の研究に当てはめるなら、まだオープニングラップどころか、レースのレギュレーションについて話し合っているくらいの段階にある。

そもそも生とか死の定義すらままならない状態で、

老化を遅らせる手立てを探っている

くらいのところだ。この程度の初期段階で、

自分の代で結果を出したい

などと現実離れしたことを考えるのはシロウトだけで、そうやってシロウトが性急に時計の針を進めようとしてもろくなことはない。

原子爆弾だってあれだけ研究を加速させたのは大国の恐怖に根差したエゴだったし、そういうバランスを欠いた性急なやり方のおかげで多くの犠牲者が出た。

月面探査も一時期むりに研究を加速させたことがあるが、あれもいい結果をもたらさなかった。

老化の研究もまだ始まったばかりで、ぼくらの世代で目に見える成果が表れると考えるのは虫が良すぎるし、そのためにムリに開発スピードを上げてもろくなことはない。しかし、そういうムシのいいことを考えるということ自体、そもそもぼくらの精神がまだまだ未熟だということの証である。

健全な肉体に健全な精神が宿るように、未熟な精神には未熟なテクノロジーが宿る。未熟なテクノロジーによる災難は、これまで人間がいやというほど経験してきたことだ。

やがてほんとうに何千年も生きるような人間が現れることもあるだろうが、遠い未来の話であり、そのころには、死の恐怖などというものにとらわれる人はいなくなっているだろう。

生と死の境目がそもそも問題にならないくらいに精神が成熟したあかつきに、ようやくそういう時代が訪れる。

3点目:問題は死後のシステムにこそある

そして最後になるが、以下は実証できないことなので個人のたわごとだと思ってください。

生を限りなく引き伸ばしても死の側の問題は解決しない。しかし、本当に大きな問題は死の側にこそ横たわっているのだ。

人間があっというまに死ななければならないのは、どちらかというと、生のシステムというよりも、死のシステムの側に問題がある。そっちを先になんとかしなければならないのだが、人間のテクノロジーはまだまだとうていその入り口にまでもたどり着いていない。

それを思うと、これほど精神がお子ちゃまな僕らが不老不死を語ることの因業さに胸を打たれるし、それがこれからさらに深い業というかより大きな争いを生み出しそうな気がするんだけど、とはいえ、そういうたとえようもない愚かさこそが人間だという気もする。

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