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「ねばならない」もたまにはOK


先日、ちょっと大きなミスをして、謝罪しなければならないことになった。相手の苦り切った表情を想像すると、冷や汗が出てきて他のことが手につかなくなった。


おなじく先日、やりたいこと、やらなければならないことを数え上げているうちに、とても時間が足りないと思い始めた。あせりが高じ、かえって集中できなくなってさらに作業が遅れた。


さらに先日、チャットでアメリカ大統領選について意見交換をしていたところへ、「トランプが政権を取らねばならない!」という人がまじってきた。現状を分析しているだけなのに「ねばならない」人が出てくると冷静な話し合いができず、メンドウくさい。

以上、3つのシチュエーションは、一見するとまったく異なる。

・・・と思っていたんだけど、よくよく考えてみるとそうでもない。ぼくのきもちに余裕がなくなっている、という点では共通している。

①の状況で、ふと思ったのは、「なんとかして相手をクスっと笑わせられないかな?」ということ。それからいろいろ考えて、ある程度のネタを思いついたころには、謝罪のあせりよりも、笑わせたい気持ちが強くなっていた。

②も、こころの余裕がなくなっている点は同じだ。やらねばならないことが多すぎたせいで、一気に巻き返そうとあせって逆効果になってしまった。巻き返そうなどとムシがよすぎる。少し肩の力を抜こう。

③もそうだ。
相手の「ねばならない」をぼくがメンドクサく感じたのは、ぼくの方にも、冷静に話し合わ「ねばならない」というきもちがあるからだ。なんのことはない。ぼくも「ねばらなない」人だったのである。

少々「ねばならない」人が混じっているほうが会話はおもしろくなる。そう思っておけば、次回は、楽しく話せるだろう。

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