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長渕剛と大滝詠一はどっちがグレートか?

本当に影響を受けたものであるとか、心の底から好きなものについては、こういった場所ではなかなか語れないものである。思いがこもりすぎて語るのがおっくうになり、伸ばし伸ばしにしているうちにどんどん語りにくくなる。

たとえば、ぼくの好きな映画オールタイムベスト1についてはここでもほかのどこでも一度も書いたことがないが、それは自分にとっての「聖域」みたいなものであり、テキトーな言葉でおいそれとは語れないのだ。

といいつつ、思い切って言っちゃうけど、ぼくが人生で一番影響を受けた音楽は大滝詠一さんの「A LONG VACATION」である。これを書こうと思った原因はこの記事だ。

ずいぶんとムズカシイことが書かれている(汗)。「A LONG VACATION」は今では聖典のように扱われているらしいのだ。そういわれると書くのがさらにおっくうになりそうなので、手遅れにならないうちにさっさと書いてしまおう。

ぼくはいま現在「A LONG VACATION」を愛聴していない。すでに一生分聞いて、聞き飽きたと思っているので今後聞く予定もない。またそこから日本のポップスについて語る立場にもない。ただし、発売当時は・・・中学2年かなぁ・・・あのころは「A LONG VACATION」を1年以上にわたって多い日は5-6回。少ない日で最低2回ずつ聞き続けていた。

だからといってとくにポップスに詳しいわけでもないのだが、その後の音楽の聴き方を決定的に決定されてしまった。語弊があるかもしれないけど大滝詠一さんの楽曲には若者の生き方などはこもっておらず、ひたすら作りこんだ音だけがあった。このスタンスがぼく人生を決定した。

さて、この件については長渕剛氏を抜きには語れない。当時、ぼくの周囲では長渕剛さんの唄がめちゃくちゃヒットしていたのである。長渕剛の楽曲は音楽であるまえに生き方であり、若者の叫びだった。しかし、ぼくは音楽で叫びたくはなく、生き方を教わりたいとも思わず、ただ単純に優れた音楽を聞きたかった。長渕ブームにうんざりしており、かろうじて大滝詠一さんの音楽に慰めを求めていた。当時あそこまで作りこんだ音は日本にはほかになかったのである。

当時、ぼくのまわりでは「長渕剛と大滝詠一はどっちがグレートか?」論争が起こっていた。起こっていたというより、ぼくが多数派にたてついてそうなっていただけだ。クラスに大滝詠一派はぼくともう一人しかいなかった。

なので、ぼくは「いつかこの大滝という人が長渕剛を抜いてトップに躍り出る日が来てくれればいいなあ」となどと思っていたのだが、今にして思えば2人は決して「巨人vs阪神」のような位置にいないのである。何の接点もない2人である。言ってみれば「神戸山口組と仮面ライダーのどっちが強いか」みたいなまるで見当違いの比較をしていたわけだが、当時のぼくから見える風景が「長渕vs大滝」になっていたので仕方がないのである。

ぼくはやがて大滝さんの音楽を離れたあと、アース・ウインド・アンド・ファイアの作りこんだ黒人音楽の世界へ、そしてナベサダブームのなかで渡辺貞夫さんとデイブ・グルーシンが作りこんだジャズの世界へと踏み込んでいき、どんどんポップスの世界から遠ざかっていったわけだけど、やはり原点は「ザ・作りこみ!」の大滝詠一である。

いまでは「スムースジャズ」という、西海岸のチョイ悪オヤジがクルマの助手席に女の子を乗っけてかけ流しているようなチャカチャカした音楽を愛好している。しかし出発点はぜんぶ大滝詠一さんなのである。そういうとご本人は迷惑するだろうけど。

たとえば昨日はブライアン・シンプソンというチョイ悪オヤジの親玉みたいなアーティストの「Because of Love」 というチャカチャカしたアルバムを6回くらい聞きながら仕事をした。

中に1曲だけボーカルが入っている曲があるが、ちなみに歌詞はこうだ。

Because of love, love, love
All because of love, love, love
シュビ・シュビドゥバー...

必要ないとおもうけど、念のため翻訳しておく。

愛の、愛の、愛のため
すべては愛の、愛の、愛のため
シュビ・シュビドゥバー...

これがずっーと続くだけである・・「アイ・アイ・アイ・ライク 演歌」みたいなものだと思ってもらって差し支えない。

音楽はすばらしくて何年も愛聴しているんだけど、この歌詞だけを長渕剛ファンが見たらきっと「お前の生き方は腐ってる!」と言うだろう。それにしても、もういいかげん大滝詠一と長渕剛をくらべるのをやめなければならないなあ。今日で終わりにしよう。繰り返すけど、これは神戸山口組と仮面ライダーを抗争に持ち込もうとしているようなものであって、不毛な論争である。

・・ちなみに神戸山口組を引き合いに出したのはジャンルのまったく異なる2人のたとえとして思いついただけであり、決して白い粉を連想しているわけではない。「人生の大きな大きな舞台に立った君に幸せあれ!」と乾杯している長渕さんが白い粉に手を出すわけがないのだ。清原さんは白い粉で捕まっちゃったけど、清原さんがアニキと慕っていた長渕剛には白い粉など無関係に決まっている。清原さんの引退試合に長渕剛が出てきたのは単なる偶然である。裏で二人でキメていた・・なんてことあるわけないだろこの野郎!

それにしてもに二人とも肌が焼けてますな~。ヤクをやっている人は肌の色がドス黒くなるのでそれをごまかすために日焼けサロンに通うと聞いたことがあるけど、清原さんはそうだったのだろう。しかしアニキの肌の色が清原さんと似ているのは単なる偶然!

大滝詠一ファンに「お前の生き方は腐ってる!」と言うファンに慕われた長渕のアニキが白い粉に手を出していることなどありえない。青春の唄で歌われるのは白い雲であって白い粉ではない!福岡のミュージシャンで白い粉に手を出したのは飛鳥涼だけであり、くれぐれも長渕剛と聞いて白い粉などは連想しないでいただきたい!

というわけで、本日をもって中学時代から続いている「長渕剛と大滝詠一はどっちがグレートか?」論争を終結したいと思う。最終回答は「比べられない」である。けっして白い粉によるオウンゴールではない。

ところでぼくが当時「A LONG VACATION」から学んだのは、ポップスがどうたら言う小手先のことではなくて、生き方を込めた唄というものから徹底的に離れて生きていく人生路線だった。しかし、こうしてあらためて書いてみると、「生き方を込めた唄から離れる」という生き方をしっかり学んでしまっている自分がオカシイ。これは今日はじめて気づいたことであり、これまで「A LONG VACATION」から生き方を学んだことに気づかずに40年を過ごしてしまった。

いまでは「A LONG VACATION」をまったく聞かなくなったぼくだけど、「生き方を込めた唄から離れる」スタンスはそのままだ。あれだけ突出しているアルバムは、このように人生をこじらせるような影響の与え方をすることもあるということです。

愛の、愛の、愛のため
すべては愛の、愛の、愛のため
シュビ・シュビドゥバー...

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