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他人のまんじゅうを食べたらどうなるか?

母は生前、俳句の会にはいっていた。

あつまりのたびにお茶とまんじゅうがでた。

だが、参加者の中に一人、かならずまんじゅうを2人分たべるひとがいたそうだ。

まんじゅうは人数分しか用意していない。

母は、毎回食べそこねていたという。

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. . . というハナシをドライブしている最中に母からきいた。

「なんであんなことするのかな~」とぼんやり聞いてきたのである。

ドライブの最中ってなんとなく放心状態になりますよね~。そういうときだった。

母は、おかしがほしいわけではないと言う。ただ、なんであんなことをするのかいつも不思議に思っていると語っていた。

まわりからみても感じが悪いのだが、本人だけが平気なのだという。

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ぼくの答えはこうである。

その人はきっと心の奥に「自分は損をしている」という気持ちを根強くもっているのではないか。だから、みんなとおなじ量を食べたのではきもちが収まらないのだろう。ひとより1個多めに食べてやっと安心するんじゃないかな。

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一昨日のnoteで心理学者のウィリアム・ジェームズのコトバをとりあげたけど、もういちど引用してみる。

人間はしあわせだから歌うのではない。
歌うからしあわせになるのだ。

ジェームズが言っているのは、「内面が行動に出るのではない。行動によって内面がつくられるのだ」ということ。

とはいっても、しあわせだから歌うことだってある。

その場合は、しあわせだから歌い、歌うことによってますますしあわせ感が強まる。

行動によって、内面の確信がふかまっていくわけだ。自己暗示がかかるのである。

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さいほどの、まんじゅうにもどってみる。

その人は「わたしはみんなより損している」と思っている。

その思いが、他人のまんじゅうをたべるという行動をうむ。

そして、他人のまんじゅうを食べることによって、私は貧しいという確信がますます強まるのである。

心の底から「じぶんはまずしい」と確信している人が、豊かさを呼び込むような行動パターンをとることはできない。

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逆の例。。。

ぼくはかつてずいぶんお金に困っていたことがある。だがそのとき、思い切って少しだけ寄付をした。

そのとたんにと「ああ~ぼくは人に寄付できるくらいは豊かなんだ」という確信というか、まあ実感ですね. . .ゆたかさの実感がふわ~っとわき上がってきた。

それからだんだんお金に困らなくなったのである。

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ちなみに、いまぼくは住む場所のことをまったく心配しないでいい境遇にある。お金がざっくざっくあるわけではないが、住まいの心配がないというのはけっこう豊かな気分である。

しかし、狙ってこうなったのではない。命がけで人に与えようとした結果、気づいたらこうなっていたのである。

寄付はじぶんのためにやるものだとつくづく思う。

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