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チクる人

あなたの周りに「チクる人」っていますか。密告が趣味の人。ちょっと信じられないかもしれませんがそんな人がいるのである。ぼくはかつてそういう人に出会ったことがある。女性だ。出会っただけではなくてチクられてえらい目に合った。

職業訓練校にかよっていたときの同期生だったのだが、いざ書こうと思うとなにをどうチクられたのかはっきりと思い出せない。たしか訓練校の入校が7月初旬で、ぼくはそれまでやっていたコンビニのバイトを辞めたのだが、オーナーの奥さんに「あと1日だけ来てくれないか」といわれて7月の中旬に1回シフトに入ったような気がする。

訓練校に入ると同時に失業保険というやつの給付も始まるわけだから、厳密にはルール違反なのだろう。そうなんだろうな。コンビニもシフトに苦労していたのでそれくらいはかまわないだろうと思ってやった気がするが、いまになればそういうことがあったのかどうかもはっきりと思い出せない。もしかすると別なことだったかもしれないけど、まあ、これはこの話のコアな部分ではないので、さしあたあり以上のような事情だったことにしておく。

それで、そのままだまっていれば何の問題もないわけだけど、ぼくは割に簡単に人を信用して心を許してしまうのである。今こうして書いているのをみてもわかるだろうが、口に出さなくてもいいようなことをホイホイしゃべってしまうタチなのだ。たぶんそのときも、授業の休憩時間かなんかに「チクる女性」にそのことをホイホイしゃべったのだろう。われながらバカなやつである。

それから半年がたち、訓練校の卒業式をむかえた日のこと。急に校長から呼び出しがかかったのだった。校長などという存在がいることを知ったのはそのときが最初である。それくらい縁のない存在だった。そもそも授業をやっている建物と校長室の入っている事務棟は通路を隔ててまったく別の建物であり、ぼくは卒業の日に校長室に入るまでその事務棟にすら足を踏み入れたことがなかった。

最上階の校長室に入ってみると「かくかくしかじかのことを報告してきた訓練生がいるのだがほんとうだろうか」と聞いてくるので、ぼくはあわてて

「いいえ、そんな事実はありません」

「それならいいが、そういうことのないように以後気を付けてもらいたい」などとくぎを刺されてから冷や汗をかいて卒業式に臨んだような気がする。

それにしても、校長にしたところで、今から卒業して赤の他人になるイイ大人をつかまえてそういうことを言いたくはなかったはずである。しかし、密告があったので対応しないわけにはいかず、やむを得ず形だけの取り調べをしたのではないだろうか。

ぼくが校長室を出て、みんなのいるところに帰ってくるとすでにその件が話題になっていた。ぼくはだれがチクったかまだわからない状態だ。ちなみに同期の女性は5人しかいなかったのだが、なぜかそのうちの1人が代表してぼくのところにやってきて、「私と○○さんと○○さんと○○さんはそんなチクりはやっていない」とわざわざ4人の名前を挙げて明言したので、自動的にのこりの一人の女性が犯人だということが判明したのだった。それを伝えるためにそういうことを言いに来てくれたのだと思う。

ぼくはこの5人全員と仲が良かったとおもう。いまでも全員の顔を思い出せるが、このチクり魔とももうちとけて話をしていた。いつもニコニコして笑顔のステキなかわいらしい女性で、口癖が「わたし、世間の役に立つ人になりたいの♪」だったのである。会話の途中で、ふと脈絡なくそういうふうに言うのをなんども聞いたので「ヘンなことを言うコだなあ」という違和感は抱いていた。

それにしても「入学後にバイトを続けていたやつががいる」というチンケな情報を伝えるためだけに、わざわざ実習棟をでて通路を横切り事務棟に向かう彼女の姿を想像すると、「わたし、世間の役に立つ人になりたいの♪」という言葉とあの笑顔が思い出されてちょっとゾクッとする(笑)。犯人はすぐにばれるに決まっている。じっさい、卒業式のあとの飲み会でも彼女のチクりは全員の知るところとなっており、のこり19人全員から「こいつには気を許さないほうがいい」とひややかな目線で見られて、本人も居心地悪そうにしていた。

そうなることがわかっていて、わざわざそんな軽犯罪をチクるために事務棟へ向かうというのはいったいどういう心境なのだろうか。「わたし、世間の役に立つ人になりたいの♪」ってどういう意味なのだろう。ぼくのようなケチな犯罪者をしょっ引くということだろうか。

なんだか底知れない心の闇を感じる。笑顔のステキなかわいいコだった。ぼく自身がケチな犯罪者であるということを棚に上げて言わせてもらうなら「世の中にはモンスターがいる」ということを知った日だった。

あれから十数年がたった今になっても断言できるが、もしいまぼくのまわりにああいうモンスターがいたとしてもぼくには見極めることができないだろう。いないことを望むばかりである。

いや、ぼくだけではない。あなたのそばにもいるかもしれません・・・『ウルトラセブン』ってこういう終わり方してませんでしたっけ。

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