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だれにでも「ふつうに好きなもの」と「本当に好きなもの」がある

だれにでも、「ふつうに好きなもの」と「本当に好きなもの」の2つがある。そういう風に前々からぼくは思っているんだけど、だれに教わったのでもないし、なんかの本に書いてあったわけでもない。

ながいこと「自分」というものを観察し、そして「他人」というものを観察し続けるあいだに、そうにちがいないと思うようになった。

たとえば、ぼくの弟の好きなものは鉄道とクルマだが、本当に好きなのは鉄道だ。こどものころから時刻表を読むのに熱中していたけど、いまでは鉄道好きと旅行好きがまじりあって独自の世界を作りあげている。

それにくられべれば、クルマ好きは中年男性のゴルフ好きみたいなもので、周囲に感化されてやってみたら意外におもしろかった、というくらいのモノだろう。見ていればわかる。

それから、ぼくのともだちには、格闘技とパチンコが好きなヤツがいるんだけど、本当に好きなものは格闘技で、パチンコは余技だ。これも子供の頃からの付き合いなので見たらわかる。

高校時代はボクシングをやり、その後空手をやって、これから合気道をやるつもりらしいが、極真会館の世界大会を観戦するためだけに何度も上京したと言っていた。そんなことのためにわざわざ上京するということば、ぼくには理解できないけど、それが「本当に好き」というものだ。人間は、本当に好きなものについてなら、「こいつにはつきあいきれない」と周囲の人間に思わせるような面を見せるのである。

さて、ぼくは音楽も好きだし、小説も読むし、ゲームもするし、マンガも読む。それから心霊現象もUFOも好きである。しかし、「本当に好きなもの」はたぶん映画だ。

映画以外の分野には、「こいつには付き合いきれない」というようなクレイジーなヤツをみるにつけ、じぶんはそこまでではないと自覚する。

ただし、映画についてはそういう風に感じたことが一度もなくて、たとえば『淀川長治自伝』を読んでも、ああ同類だなあ・・としか感じない。

先日、ヒッチコックの『ロープ』を見てから、Filmworksという映画専門のSNSを読んでいたら、7月22日だけで『ロープ』についての投稿が10本くらいあった。1944年の作品をいまさら熱く語っているヤツはみな「本当に好き」な連中だ。

ただし、「本当に好き」が「ふつうに好き」よりエライというつもりはなくて、ぼくのジャズ好きだって「ふつうに好き」の部類に入る。

わざわざニューヨークまで聴きに行ったくらいなので、相当好きなんだけど、それでもクレイジーというほどではない。

今日、公園でサックスを吹いている人がいた。明らかにアマチュアの音ではなかったので耳を傾けていると、そこから本格的な腕を見せてくれた。

こんな風に吹けたらどんなにいいだろうと、演奏を聞いているうちにアタマの中に別なアドリブフレーズが浮かんできて、ここは自分ならもっとこうするな、ここはもっとこうしてほしい、などと思いつつ聞きほれた。

とはいえ、ぼくのジャズ好きは「本当に好き」ではなくて、あくまで「ふつうに好き」のかなり踏み込んだものにすぎないのだ。どこがどうちがうんだ?といわれても答えに困るのだが、自分でわかる。だれでも自分でわかるはずだ。

それで何を言いたいのかいうと、このところ、さわがしい出来事が立て続けに起こっている。どの事件も根が深く、世の中の見通しの暗さを感じさせるものばかりだ。

そういうことについて、あれこれあれこと考えてみたのだが、結局のところ、言えることは一つしかない。

自分が無敵の人にならずに済んだのは、映画のおかげだということ。

映画のおかげで冗談をいえるし、映画のおかげで視野が広がったし、映画のおかげで人の気持ちがわかり、映画のおかげで2022年を生きつつ同時に1944年を生きることができる。映画に人生を救われた。

おなじように、野球に救われた人や、高級腕時計に救われた人や、天体観測に救われた人などいろいろいるのだろう。いずれにしろラッキーだったとしか言えない。映画には、感謝しかない。


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