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失われたハイウェイ

ぼくは舞台芸術のことはよくわからないんだけど、舞台の主役は俳優さんなのだろう。舞台に上に俳優さんが立って周囲にエネルギーを放つことで観客と共に3次元の「場」ができあがる。それが作品というものではいかとシロートなりにおもっている。

その点は、コンサートも寄席もマジックも漫才もライブパフォーマンスはみなおなじだ。主役はパフォーマーである。

一方、映画はそうではない。映画の主役はカメラである。カメラが空間をフレームで切り取って2次元に置き換える。それを時間的につなげたものが映画なのだ。

映画における俳優さんはカメラが映す素材の一つにすぎない。俳優さんには申し訳ないことだが、映画の中の俳優さんは木々や青空や建物やゴジラと同列で、カメラが映す影の1つである。淀川長治さん風に言うなら、映画とは「キャメラ、キャメラ、キャメラ」なのである。

以上、かんたんに2つに分けられるように書いてしまったが、じっさいはいろんなタイプの作品がある。

ポール・ニューマン監督の『ガラスの動物園』も、リンゼイ・アンダーソン監督の『八月の鯨』も、カメラが気配を殺して、俳優さんを前に出している。こういうものは舞台で演じることができるし、『ガラス・・』はそもそも舞台の脚本なので当たり前と言えば当たり前。

アカデミー賞を受賞する作品も、この手の「俳優さんが主役」と錯覚できるタイプの作品が多く、俳優の演じる物語を見ているのだとつい思ってしまう。こういうのが健全な映画である。

一方で、映画マニアが好む作品は、カメラが主役として前面に出ているものが多い。やりすぎるとギミックショットなどと言われるが、ぼくもその手の作品に惹かれやすいのは事実だ。

しかし、そういう自分やら、似たような映画好きの好みに自己嫌悪しているところもある。カメラが主役になることの不健全さを自覚していないタイプのアホな映画好きを見ると、「あっちへいってろ!」と苦々しく思う。

ところでぼくは映画を作る人間ではありません。なので映画批評なんかいたしません。この記事も最終的には「宇宙とは何か」ということろに行きますので。

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ぼくがやっているのは宇宙のナゾの探求である。映画を作ることに興味はないし、作り手の才能に嫉妬することもない。

ソ連のアンドレイ・タルコフスキー監督の作品には一時熱烈にほれこんでいた。だが時間を創造してみせてくれた彼の才能にひたすら感謝していただけで、嫉妬を感じたことはない。

でも映画の中で創造の謎を見せてくれる作品にはなかなか出会えない。だから「映画を好きな自分」と「宇宙のナゾを探求している自分」との乖離(かいり)には長年悩まされてきた。

今日はデビット・リンチについて語るが、リンチは「映画を好きなぼく」と「宇宙のナゾを探求しているぼく」の分裂をがっつりと橋渡してくれる映画監督であり宇宙の創造者だ。

そういうリンチの『ロスト・ハイウェイ』をひさしぶりに観て嫉妬のようなものを感じたのである。リンチは、フィルムの上に別の宇宙を創造した。そうすることで、ぼくが探っているこの宇宙のナゾをあるていど解いてしまっている。

映画を作ることでそんな離れ業をやってのけられるなら、神さまはぼくにもちょろっとやらせてくれてもよかった。ぼくの能力ではムリだということなのか・・。

それにしてもリンチはこの映画を作ったときの記憶がほとんどないそうでだ。天才というものにはつくづくイヤになるのである。

「ほとんど覚えていないんだ」と語るこまったオヤジ。

さて、さきほど、映画の主役は俳優ではないと書いたけど、『ロストハイウェイ』の主役もヒトではなくてハイウェイのセンターラインである。真夜中のハイウェイで眼下に疾走し、消えていくセンターラインの映像が主役を張っている。

このセンターラインは、真夜中のハイウェイのド真ん中を疾走している主人公の目に映るセンターラインなので、かたくるしい言い方をするなら、そういう主人公の狂気の象徴だといえる。「宇宙を光速で突っ走る狂気」の象徴だと言えるだろう。

主人公とは、40代のジャズミュージシャンフレッド兼、20代の自動車修理工ピーターである。二人は別人であり、同一人物でもある。その構造はメビウスの輪のオモテとウラの関係とおなじだ。

作中では、このセンターラインが繰り返し映されるが、そのたびに現実が少しずつ崩れていく。

とはいっても、ワチャワチャと崩れる現実を芸術家のマスターベーションのようにとらえているのではない。そんなフィルムなら退屈するだけである。

この映画では、ネズミ一匹入り込めない刑務所の死刑囚房で、フレッドが瞬時にピーターに入れ替わったりするが。これはありえないことなので看守はとうぜん驚く。所長は事実を否定して2人の刑事に調査させる。

つまり、「確固たる現実」が光速でくずれていきそうになるのに対して、理性が解明しようとすがりつくのだ。

しかしふたたび画面はセンターラインを疾走してさらに現実は壊れていく。ハイウェイの流れ去るスピードに理性は追いつけない。

そして、最後の最後にハイウェイはファーストシーンの1つ目の狂気にたどりついて終わるのだ。それは寝ているフレッドの家のインターホンをフレッド自身が鳴らして「ピーターが犯した殺人を伝える」というおだやかな朝である。

こういう作品を舞台で再現することは不可能だが、そういうものに衝撃を受けている自分がまっとうな人類なのかどうか自信がない。

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ぼくは、さいきん、あらゆる不思議現象の根っこにあるものはアートだと思うようになった。

逆ににいえば、物理現実と呼ばれるこのカッチンコッチンの世の中は、ずいぶん可塑性のある、プラスチックな、つまりグニャグニャにひんまがる世界だということでもある。

そしてヒトの狂気がグニャグニャに曲げられるのは地球というせまい物理現実だけにかぎられる、というお子ちゃまな考えもを捨てた。

狂気は死刑囚房をねじまげるように、天の川の向こう側もねじ曲げることができる。これは想像ではない。どこにも出ていない「確固たるデータ(笑)」にもとづいた結論だ。狂気は宇宙のどこでもグニャグニャにできる。

そういう見方をすれば、聖者が起こす奇跡も、リンチがやったことも変わりはないのだが、この映画はハリウッドのお金を使って作られて商業的に成功し、いつでもだれでもどこでも見られる分、聖者の起こした奇跡を上回っているとは思うのだ。

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