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テクノロジーは「勝ち方」を変えるだけ

テクノロジーは勝ち方を変えるだけで、世の中を変えないのではないか、みたいなことを言うと、「お前何言ってんだよ」という声が聞こえてきそうである。インターネットが普及してこれだけ変わっただろうと。そんなこともわからないのかと。

でも、インターネット以前と以後を比べてみて、なにもかも変わっているようでいて、実はなんにも変わっていないような気もする。

なんで急にこう思うようになったのかというと、ちょっと思い出したことがあるのだ。ぼくが実感をもって語れるようなことというとだいたい映画に関わる話になってしまうのだが、これもそうである。

1987年のホームシアター

かつてオーディオ評論家に長岡鉄男という知る人ぞ知る人がいた。かれは1987年に

巨大ホームシアター

を建設してしまった人である。ちょっとやそっとのホームシアターではなくて、48畳の広さのある2階建てのビルみたいなものだ。

この建物は形が五角形なので「方舟(はこぶね)」と命名された。長岡さんは2000年に亡くなってしまったけどいまだにこの建物はあるらしくて、「方舟まいり」をする人たちがいると聞く。言葉で説明するのは難しいのでネットに出回っている画像を拝借させてもらいます。外観はこういうかたちだ。

全体がホームシアター

そして内部はトップ画像のようになっている。

長岡氏は別にお金持ちではないそうで、ご本人曰く30年かけてドケチに蓄財し、株式投資を積み重ねた結果がようやく実を結んで、それを全部吐き出してこういう化け物みたいなホームシアターを建設したそうである。

1987年というとバブル絶頂期に向かおうとしていた時期だから、リアルに言えば「実を結んだ」というよりバブルの勢いで膨らんだのだろう。そして、あと2年も待っていたら、その「実」は、一気にしぼんでしまったはずなので、絶妙な時期に売り抜けたと言える。

30年間ケチケチと蓄財して、それがバブルで膨らんだ時期に一気に売り抜けてホームシアターを建設したという風に考えてみると、長岡さんには

天祐(てんゆう)=天の助け

があったとしか思えない。そして、それは長岡さんが好きなことだけを迷いなくやっていたからこそなのだろうと思える。

「DVDを待っていられない」

建物は写真のように迫力があるのだが、中に設置されているホームシアター設備は、いまにすればしょぼいものである。

200インチのスクリーンで上映されていたのは、全部レーザーディスクだ。ぼくもレーザーディスクはいろいろ持っているんだけど、画質はろくなもんじゃない。

今ではDVDすら時代遅れになってしまったけど、レーザーディスクの画質はそれよりもさらに劣る。それを200インチに引き伸ばして映写していたのだから見られたものではない。

たしか「方舟」建設に踏み切った動機を聞かれたときに長岡さんは

いずれDVDというものが登場すると思うが、そのころ自分は生きていないかもしれないので、待っていられない。だからいま着工するのだ。

みたいなことをおっしゃっていた記憶があるが、実際にDVDが出回ったころに亡くなられた。

その後、DVDで画質がグッとよくなり、さらにフルHDの時代が来て段違いに画質が良くなり、そしていま4Kがあたりまえになりつつあって、やがて8Kが視野に入りつつある。

だから、いい時代になったといえるかというとそんなこともないと思えるのだ。

いくら画質が良くなっても、一世一代の「方舟ホームシアター」の気合には及ばない。理屈でうまく言えないのだが、いま手軽に見ているフルHDより、あの「方舟」の低画質のレーザーディスク引き伸ばしのほうが感動が大きかったんじゃないかなと。

テクノロジーは「勝ち方」を変えるだけ

以上の話を情報テクノロジー全般に単純に当てるのは乱暴かもしれないが、似たような面がある気はするのだ。

シリコンバレーの時代が来たとか、YouTubeの時代が来たとか、いろいろ言われるけど、冷静になって考えてみると、鎌倉幕府が室町幕府に変わったり、源氏が平家にとってかわったようなことに近い。天下人にとっては追い詰められたり、下克上を果たしたりして大事件なのだろうが、庶民にとっては大した違いはない。

庶民は、平家が源氏に変わったら粛々としたがうのみである。おなじくネットが普及したら粛々とネットを使い、スマホが普及したら粛々とスマホを使い、AIが普及したら粛々とAIを使うのだ。

AIの時代になれば、もちろんいろいろ変わるだろう。自分で芥川賞小説を書く代わりに、うまいことAIに芥川賞小説を書かせる時代が来るかもしれない。

それは、芥川賞を狙っている人たちにとっては、勝ち方のルールが変わることになるので大事件である。しかし芥川賞を狙っていないぼくにとっては大した違いはない。いくら芥川賞の取り方が変わろうと、人間自身はかしこくも愚かにもならない。

これはあらゆることに当てはまる。社会で「うまいこと立ち回って勝とう」としている人にとっては、勝ち方のルールが変わることは大事件だが、もともと勝とうとしていないぼくのような庶民にとって大した違いはないのだ。

平家が源氏に変わったぞ!タイヘンだ~
AIが出てきたぞタイヘンだ~

みたいなことを言って騒いでいる人たちは勝つ気満々だからそうやって大騒ぎしているのだが、ぼくみたいな庶民がそれにのせられて慌てるのは、洗脳されているだけというか

人が好いにもほどがある

という気がする。

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