アリの巣の記憶

大学の二回生の初夏のころ、あらゆることに疲れ果てて、八方ふさがりになったことがある。学業もバイトも人間関係も、なにもかもがうまくいかず完全に参っていた。

そんなある日の午後、裏庭に出て直射日光を受けながら地面にしゃがみこんでアリの巣をみていた。

二十歳そこそこの男の子が地面にしゃがみこんでアリの巣をじっと眺めている姿はやや病的だ。

ただしそれから数分経過したところで、気づくと、ぼくの気力と体力は完全に回復していたのである。

何が起こったのかわからない。アリの巣から影響を受けたとも思えない。

ともかく、完全に放心しているあいだに自分の中の何かがリセットされてしまったような感覚だ。

あんな不思議な体験は「アリの巣」の一回きりである。

***

ところが、昨晩似たような経験をひさしぶりに味わった。

このところ難しい仕事を受けて疲労がたまっており、そのうえこの土日も閉じこもって働いているので、じわじわと弱りかけていた。

参っているときにぼくが読みたくなるのは時代小説である。江戸時代に逃げ込んで癒しを求めるのだ。

「たそがれ清兵衛」や「武士の一分」で知られる藤沢周平氏の作品が好きだが、ここ数年はご無沙汰していた。

だがひさしぶりに『蝉しぐれ』という作品を手に取って読み始めた。そして100ページほど進んだところで、気づけば気力と体力が完全に回復していたのである。

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『蝉しぐれ』の主人公は元服前の少年で、ものがたりは盛夏にはじまる。そして、秋、冬をこえてふたたび盛夏が訪れたところで100ページだ。

以降、少年の人生は藩を揺るがす陰謀に巻き込まれ、捻じ曲げられていく。だが冒頭の100ページまでは少年のみずみずしい成長とあわい恋が描かれている。

それを追体験しながら、ぼく自身が、盛夏から秋へ、そして冬をへてふたたび盛夏にいたるまでの1年を過ごしたような錯覚を覚えた。

体力と気力が突如回復したことは、このふしぎな時間の感覚と関係があるようにおもえる。

アリの巣を見おろしながら放心していたあいだにも、不思議な時間の感覚を味わったようだ。

時間ほど人にふしぎな働きをおよぼすものはないとあらためて思う。

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