二極化する死生観
本人の決断
今年9月に映画監督のジャン=リュック・ゴダールが安楽死したときには世界中で騒ぎになった。いろんな憶測が流れたし、ぼく自身、
と勝手なことを思ったものだ。驚きと脱力感である。
しかし、その後さまざまな情報が出てくるにつれて、ゴダールの安楽死は、彼の映画のもつ独特の軽さと同一視していいようなものではないと思うようになった。死についての決断は、どんな場合でも軽いものではない。とはいえ、本人が決断したという点に救いがある。
親族の決断
いま「看取り」という最後の迎え方が社会に浸透しつつある。看取りとは
なのだそうだ。
これまでの無理な延命治療は、ある人に言わせれば「墜落していく飛行機にムリに燃料を詰め込んでいるようなもの」だったという。そういわれればそのとおりだ。
しかし、そうはいわれても家族の決断はなかなか難しいのである。いまでこそ看取りというコンセプトや制度ができてきたけど、ちょっと前までは「ムダなな延命治療」がお決まりのコースだったし、その決断が親族にゆだねられることも多かった。そして肉親が生かせるだけ生かしておきたいと思ってしまうのもわかるし、また、親族が集まった場で「ムダな延命はやめよう、」と言い出すのはむずかしかった。
しかし、ムダな延命を決断した家族は、あとでふりかって
と悔やむことがあるのではないか。ぼくはそういう経験があるのだが、このことは25年ほど胸にしまってきた。
しかし、つい最近、似たような思いを抱えている人と話をして、ようやく胸のつかえが降りたというか、ほっとしたのである。なんにせよ重いものを胸に抱えているとよくない。「さっさっと吐いて楽になれよ」とヤマさんも言っていることだし。。。
それにしても看取りがあろうとなかろうと、家族に決断がゆだねられるとやはり大変で、介護の専門家などを交えていろいろと話をした結論として、やはり「本人が決断しておくのがいい」という話になった。
これはほんとにそのとおりで、ゴダールについてもいえるわけだ。自分で決断したのだから、今後何を言われるにせよゴダール本人が言われることであり、親族が背負わなくていい、という点に救いがある。
死の二極化
不自然な延命を見直そうという風潮が社会に浸透するまでには、さぞ、いろんな人がいろんなことを思い、願い、いろんな働きかけがあったのだろう。詳しいことは全然知らないけど、死生観がどれほど厄介なモノかを思えば、想像に難くない。
それにしても、そもそも人が病院 or 自宅でクリーンな死を迎え、クリーンに火葬されるようになったのは比較的近代に入ってからだと聞く
京都には、三大風葬地というのがあり、化野(あだしの)、鳥部野(とりべの)、蓮台野(れんだいの)と呼ばれている。平安時代に火葬にふされるのは身分の高い人に限られ、庶民は洛外へ運びだされて風葬されていた。きっと全国で似たような状況だったのだろう。火葬と野ざらしに2極化していたわけである。
二つの二極化
そしていままた二極化が始まっている。
ムダな延命を断り、家族に看取られておだやかに死んでいく人も今後増えていくだろうが、一方で、孤独死も増えていくだろう。そして、孤独死というのは「都会の風葬」のように思えるのだ。
二極化にはもう一つの意味がある。
医療が進歩していくにつれて、富裕層ほど寿命が伸びていくだろう、これまでもそういう面はあったけど、さらに露骨になっていく。
いまでもクライオニクスというのがあるけど、これは遺体を冷凍保存し、医療技術が発達した未来に蘇生してもらおうという試みだ。そこまで生に執着する人なら、これからはサイボーグ化などにもよろこんで飛びつくのではないか。
そこまでする人というのは、我欲が極度に強い富裕層というイメージが湧く。ぼくやぼくに近い宗教観というか、「見えない世界」観みたいなものを持っている人たちの感覚でいうと
という感じしかない。
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