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情報がタダだと思っているようではこの先キツい

前々から「情報をタダで済ませようとするのはよくない」とずーっと思っている。よくないというのは道徳の問題ではなくて、タダなのが当たり前だと思っていると損をするということで、そこをわかっていない人を見るにつけ「ああ残念だなあ・・」と思っていた。

とはいえ、なぜ情報をタダで済ませようとする人は損をするのかをうまく説明できなかった。なので、ここ十日間くらいずーっと考えてきたんだけど、ようやくまとまってきたので、今日は「なぜ情報がタダだと思っていると損をするのか」についてぼくの考えを書いてみよう。

情報がタダだと思っていると損をする理由

結論からいえば、

価値を見抜く目が失われる

からだ。

情報にたっぷりお金を払えと言っているわけではないけど、「タダなのが当たり前」だと思いこんでいると、本当に価値のある情報を見抜く力が失われるので、結局は損をする。

「価値がある」とはどういうことか

さて、そもそも価値があるとはどういうことだろう。僕の考えでは、価値のあるものには2種類ある。1つは

みんなが価値があると思っているもの

で、もう1つは

自分で価値を見出したもの

である。前者の代表は純金(ゴールド)であり、後者の代表はレアアースだ。ゴールドに価値があることはあなたが生まれる前から決まっていることで、誰でも知っている。そして、だれでもゴールドに価値があると知っているということは、それをみんなが欲しがるということであり、安く手に入れることはできないし、安く手に入らないものを売っても稼ぐことはできない。

一方のレアアースは、最近になるまで単なる土だと思われていた。しかし、それらが半導体などの製造に欠かせないものだとわかってきて、いまでは金以上の希少性を帯び、世界中の国々が取り合いをしている。

でも、その希少性が判明したのはごく最近のことなので、最初にその価値に気づいた人は「単なる土を買い込んだらゴールドに化けた」ことになったはずで、大儲けしているはずなのだ(このあたり、かなり単純化しています)。

つまり、「みんなが価値があると思っているもの」で儲けることはできないけど、「自分で価値を発見したもの」ならば、それが「みんなが価値あるものに変わったとき」に大儲けできる。

そして、両者の違いを分けるのは、価値のなさそうなものの中に価値を見出す目であり、これが情報の力だ。

価値は情報にやどる

いまレアアースに価値があるみたいな言い方をしたけど、レアアースは今も昔も土でしかない。価値が高まったのはレアアース自体がゴールドに化学変化したのではなく、「つまらないもの」から「価値あるもの」へと人間の見る目が変わったということにすぎない。

今日、NHKBSで「SAND IS THE NEW GOLD 〜世界を巻き込む砂の争奪戦〜」という番組をやっていたけど、これも同じだ。「砂がゴールドになる」というのも、べつに砂利がゴールドに化学変化したわけではなくて、「単なる砂」の戦略的重要性が変わってしまったということだ。

「価値があるという情報」に価値がある

言い換えれば、価値というのはモノ自体にあるのではなく、そのモノを取り巻く情報にある。

これはすべての価値に当てはまる。ゴールドだって恐竜の生きていた昔から価値があったわけではなくて、あくまで人間の見る目がそれを「価値のないもの」から「価値のあるもの」へと変えただけである。ゴールドが「たんなる金色の装飾品」から、「あらゆる価値の尺度」へと変貌したた時期があったのだ。

というわけで、金やレアアースそのものに価値があるというより、「金に価値がある」、「レアアースに価値がある」という情報に価値があるのだが、こういうことに人間が気づいたのもわりと最近である。

コンピュータが生まれてようやく、人はモノと情報を切り離してとらえることができるようになり、そうなって初めてモノに価値があるのではなくて、モノを取り巻く情報を変化させれば価値を生み出せるのだということに気づいた。これに気づいたのはたぶん早い人で20世紀の後半だろう。

ぼくもこんな風にエラそうに書いているけど、気づいたのはインターネットが普及してからである。そして、いまだにそのことに気づいていない人もいる。

たとえば『開運!なんでも鑑定団 』を見て、納屋の中のお宝を探している人は、いまだに納屋の中に価値が眠っている思っている。

しかし、本当に価値があるのは、納屋の中の壺ではなくて、「そういうものに価値がある」というモノの見方なのである。

「モノの見方に価値がある」というのは比喩ではなく、文字通りの意味でそうなのであって、ダイヤモンドや室町時代の壺とおなじように、モノの見方にもゴールドのような希少性があるのだ。

ちょっと見方を変えれば価値を生み出せるなどという、トンチみたいな安直なことではない。新しい価値を生み出せるような情報はそんじょそこらに転がっていない。

ダイヤモンドが地中で長い年月をかけて出来上がったように、価値のある情報もやはり手間ヒマをかけて練り上げられている。いろんな英知が組み合わさって、時間をかけて練り上げられており、手間(コスト)がかかってるのだが、その迫力がモノのようには目に見えない。

情報には味も匂いも重さもないので、空気みたいなものだと思われがちで、どれでも同じだと思われがちだが、実際は、ゴールドのような情報からカスみたいな情報や、有害物質のような情報までピンキリである。

情報そのものにかかっている手間ヒマの値打ちを感じ取ることのできる感性を育てていないと、この先の世の中の生きていくのはキツイと思う。

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