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気の利いたものがあふれかえっている時代

確定申告の領収書は7年間保管すればいいらしいので、今日は2015年の領収書を捨てたんだけど、7年前の領収書を眺めているといろいろ思い出してたのしい。

当時はなんでもかんでも保管しており、スーパーのレシートも、旅先で入ったレストランのレシートも保管していたので、記憶が蘇ってくる。

そして、今年はレシートだけでなく、その勢いで当時の他の書類もいろいろ捨てたんだけど、ちょっと気になることがあった。

なぜプリントアウトしたのか

捨てた書類の中に、ウェブ記事をプリントアウトしたものがけっこうな枚数混じっていたのである。その多くは有名人の対談記事なんだけど、ふつうならパソコンで1回読んで「はいおわり」のはずなのに、なぜわざわざプリントアウトしたのか自分でもわからない。

たぶん「すごい記事だ!プリントアウトして繰り返し読まねば!」みたいなテンションで印刷したのだろうが、いま読み返してみれば、「ちょっと気の利いた」対談にすぎない。

そもそも対談という形式自体が、カジュアルな読み物である。2人の有名人が顔を合わせて2~3時間あたりさわりなく気の利いたトークを繰り広げている。本人たちだって、単独連載のように力は入れていないはずだ。

それを、なぜぼくは「プリントアウトせねば!」と力んでしまったのだろうか?今にしてみればはナゾなんだけど、まずは、

7年前より頭がよくなったかな?

と思ってみたのである。当時にくらべて成長したので、以前は感動していた読み物も、いまではふつうに感じるのかな?と。自分をよく思いたいのは誰でも同じだ。

しかしそうそう頭の中身が変わっているとも思えないし、そこで、もう1つ思いついたことがある。これがたぶん正解だと思うんだけど、

世の中に気の利いた読み物が増えたので、少々のことでは感動しなくなった

のではないか。2015年といまで大きく変わったのは、SNSブームであり、インフルエンサーブームであり、YouTubeブームであり、そういう流れで、世の中に「ちょっと気の利いた読み物」が一気に増えたということだ。

気の利いたものがあふれかえっているので、読み手もスレてしまっていて、少々おもしろいくらいでは印刷して読みかえそうなどと思わなくなった気がする。

気の利いたものは増えた

このnoteからして「ちょっと気の利いた読み物」コンテストみたいな場所だ。さらに言うとTikTokなんか「ちょっと気の利いたものであふれかえっている究極の場所」じゃないだろうか。

1本がみじかいのでひらめきだけでどうにかなるし、世界中の人がわんさかやっているので量が圧倒的だ。

プロ芸人 v.s. TikTok

はたとえていうなら、

羽生善治 v.s. AI

みたいな感じになっていると思える。TikTokをみているとあっという間に時間が立ってしまうが、内容をおもいだそうとするとさっぱり思い出せないあたりもテレビのバラエティー番組と似ている。

TikTokのカジュアルさは、対談記事やひな壇のカジュアルさと似ていて、ちょこっと気の利いたことを言って、洗練された感じを出せれば十分で、それ以上の

渾身の力技

みたいなものは求められない。そして、洗練は技術なので、どんどんレベルが上がっていくのである。テレビだって、昔のタレントさんのやり取りなんか今のひな壇にくらべたらモッサリしていたような気がする。

傑作の数は変わっていない

ただし、「ちょこっと洗練されたモノ」には、人生を変えてしまう1本の映画のようなインパクトはない。

とはいえ、ちょこっと気の利いたものが増えるのは自然なことなんだろう。ぼくだって渾身の力を込めて記事を書くのは週に1回から多くて2回で、それ以外の日は「ちょこっと気の利いたこと」を書いてごまかしている。毎日力を込めていたら身が持たないのだ。

「週に一回、良いものだけを出せばいいではないか」と思われるかもしれないが、毎日出していないとなかなか調子が出ない。週一で登場してそのたびにホームランを打てればかっこいいけど、そうはいかない。毎日凡退しているからこそ、たまに長打コースに飛ぶのである。

なので、SNS人口が増えれば、世の中に「ちょっと気の利いたもの」が増えていくのは仕方ないのだろう。

とはいえ、「渾身の力作」の数は昔も今もあまり変わってない気がする。気の利いたものが増えていくのは、文化が爛熟期に入っているということなのだろう。

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