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嘘ではないが本当でもない

痛快!ビッグダディはドキュメンタリーなのか?

かつてテレ朝に『痛快!ビッグダディ』という番組があった。通算32回放送されているそうなので、覚えている人も多いだろう。

ウィキペディアによると

大家族林下家を長期取材したドキュメンタリー番組(もしくはリアリティ番組)

となっている。「ドキュメンタリー番組(もしくはリアリティ番組)」とあえて記されているは、ドキュメンタリーのようなそうでないような微妙なつくりだからだろう。

ちなみに番組の主人公である通称"ビッグダディ"こと林下清志氏は、オンエアを見た感想として、

これは嘘ではないが本当でもない

と語っていた。また彼は、

子どもたちがいい子に映りすぎている

とも言っていた。

編集によって印象は変わる

「嘘ではない」というのは、画面に映っていることにウソはないという意味だろう。子どもたちは演出されたりしていないし、撮影隊も家族の一員になりきって、子どもたちはカメラに身構えたりもしてない。

かといって本当でもないというのを、ぼくなりに解釈すると、編集されて印象が変わったということを言っていると思う。

こうやって毎日文章を書いていると、文章も同じで、「削ると印象が変わる」という点をつくづく感じる。どの文章も「嘘ではないが本当でもない」のだ。

どこか本当でないか

『痛快!ビッグダディ』が、なぜ本当でなくなるのかをわかりやすく説明してみると、以下のようなことだと思う。

かりにあの番組スタッフが、林下家に一週間密着して撮影したとする。そして、その撮影内容が以下のような具合だったとしてみよう。

月曜日
一家が楽しく遊んでいる

火曜日
子どもたちが悪さをしてダディが怒った

水曜日
一家が楽しく遊んでいる

木曜日
子どもたちが悪さをしてダディが怒った

金曜日
一家が楽しく遊んでいる

土曜日
子どもたちが悪さをしてダディが怒った

こういう風に撮影が進んだ場合、あとで火、木、土曜をカットして月、水、金をつなげて放送すると、視聴者は

あの家族は毎日たのしく遊んでいるんだな

と思うだろう。これは嘘ではない。一方で、月、水、金をカットして、火、木、土だけを放映したら、

あのこたちは悪さばかりしているんだな

ということになるが、これもやっぱりウソではない。

しかし、どちらが本当かと言われれば、どちらも嘘ではないが、本当でもない。正確には、楽しい日もあれば、怒る日もある。

しかし、それでははおもしろくならないので、月水金を中心にして「楽しい一家」にするか、火木土を中心にして「険悪な一家」にするか選ばなければならない。

これは、ヤラセではないけど、どこかを削れば残ったところに光が当たってしまうという意味では、印象を操作していることになる。

実際は半々ということはなくて、ホントに楽しい一家なのだろうけど、それでもたまには悪さもするし喧嘩もする。でも、ありのままに見せてしまうと、「林下家の楽しさ」がストレートに伝わらない。

そこで、悪いところをカットして、あえて楽しさを全面に出すという編集になったのだろうし、それはダディ本人にすれば

子どもたちが良い子に映りすぎている

という印象になるのだろう。

どこを削るかで決まる

こうやって文章を書いていると同じことが言えて、一つのアイデアについていろんなことを考えるんだけど、それをそのまま書いてしまうと読んでいる人には

結局、何を言いたいのかわからない

ということになる。言いたいことをわかりやすく伝えるためには、考えの枝葉を切り落とす。そして前々から思っているのだが、どこを削るかで出来不出来はほぼ決まる。

書きなれていない人の文章を読むと、かんがえの枝葉をきちっと刈り取れていない感じを受けることが多い。だれにしろ、なにかしらのアイディアを思いつくと、そこから連想はミラーボールのように乱反射するわけで、その乱反射をうまく削れてない。

とはいえ、しかし、切り落としすぎてもダメである。ギラギラを全部切り落としてしまうと、つまらない。

「ビッグダディ」も毎日楽しいだけではインパクトが足りないので、たまにはダディとマミィが喧嘩する場面も欲しい。文章も同じで、整然とまとまっているだけではだめで、適度にギラつかせつつ、余分な連想は刈り取っていく。そこのバランスが悩みどころだ。

ギラっとさせすぎた日もあれば、たんぱくすぎた日もあり、それでも成長しているつもりなのだが、1年前の記事を読み返していると

だんだん下手になっている

などと感じて、迷う。

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