見出し画像

あの世から三日間だけ戻ってこれるなら、何をやりたいか?

昔のことっていろいろ分かっているようで、ほんとは何にもわからない。

写真も録音もビデオもなかった時代に、人々がどういう感じで生きていたのかを、残された文字と絵だけから推測することはむずかしい。

たとえば、モーツァルトといえばいまでも人気があってよく演奏されるけど、かれが生きていた当時に、かれの曲が実際にはどういう感じで演奏されていたかは、録音が残っていないのでだれにもわからないのである。

日本最古の写真

日本にはじめて写真というものが持ち込まれたのは江戸末期で、オランダ商人が伝えたものだそうだ。

1857年(安政4年)に写された島津斉彬(しまづ なりあきら)の肖像写真が、現存する最古の、日本人が撮影した写真とされている。

トップ画像に貼っておきました。これが日本最古の写真だとすれば、それ以前の有名人は、徳川家康だろうが、織田信長だろうが、当然ながら写真は残っておらず、したがってほんとうの顔つきはわからない。

ぜんぶ、似顔絵から想像するしかない。

また、島津斉彬にしたところで、どういう声をしていたのか、どういうしゃべり方だったのか、雰囲気はどうだったのか、写真だけではわからない。

このように、明治期以前の日本人がほんとのところはどういう立ち居振る舞い方をしていたのかは永遠のナゾであり、残されている文字や絵から想像するには限界がある。

しかし、鎌倉時代の武士がどういう感じで生きていたのかをあるていど推測できそうな興味深い話に出会ったので紹介したい。その上で、

現代に生きるわれわれはほんとうにめぐまれているなあ

という結論にもっていきたいと思います。

平山夢明著『こめかみ草紙 歪み』

今日紹介したいのは怪談作家、平山夢明氏の『こめかみ草紙 歪み』という怪談集の一節なんだけど、これは厳密には怪談集ではなくて、「なんだかわからない話」集だ

「こめかみ草紙」シリーズには、幽霊の話でもなければ、狂人の話でもない、そのどちらにも当てはまらない、わけのわからない話ばかりが集められている。氏いわく、この本には

幽霊でも狂人でもない、乱暴な懐疑主義者やら無粋な奴らにゃ、単に記憶の誤差のようでもあり、認知のブレだよとでも片付けられちまいかねない話(中略)『こめかみとこめかみのあいだが拵えたようなゾッとした話』を依ったつもりです。

『こめかみ草紙 串刺し』p.6

そんじょそこらにはない、なんだかわからないめずらしい話の連続なので不思議な話が好きな人にはぜひおすすめです。末尾にアマゾンのリンクを貼っておきます。アフィリエイトはしてないので安心して飛んでください。

さて、その「こめかみ草紙」シリーズの2冊目「歪み」には、そういう話が43話納められているんだけど、今日はそのうちでわずか3ページ半の作品「十五の春」というものに絞って考察してみたい。

なお、平山氏やその他の実話怪談作家の人々は、ずいぶんと体を張って取材をしておられるそうなので、以下は、失礼やわい曲のないようにに敬意を払って引用したいと思います。

「十五の春」はゾッとする話というよりも、冒頭記したように、昔の人の立ち居振る舞いがほんとはどういうものだったのかを知るにはまたとないデータだと思うので、以下はなしのあらまし概略を紹介した上で、ぼく自身の考察で膨らませてみます。

「十五の春」の概要

さて「十五の春」には、ある女性(かりに吉田さんとする)が15歳のときに体験した不思議な話が記されている。

吉田さんは高校受験を控えた15歳の春に突然、風景が二重にダブって見えるようになってしまった。精密検査をしても原因はわからず、どんどん悪化していき、ついには視界から色が消えてしまう。

「なんだか世の中全部が白でもない、黒でもない<新聞色>になっちゃったんです」

『こめかみ草紙 歪み』p.152

そんなある日、彼女は学校で失神し、そのまま三日間ほど意識が戻らなかったことがあった――が、それは本人がそう思い込んでるだけだった。
「あたし、自分では三日間眠っていたと思っていたんですけど」
実は起きていた。
起きて<他人になっていた>のだという。
「あとから聞いた話なんですけれど、あたしはその時、ワキヤトキツレになっていたんだそうです」

同書 pp.152-153

以下、一気に引用します。

教室で失神した彼女は保健室に運ばれ、そこへ連絡を受けた母親がやってきた。小一時間ほどすると彼女はむっくりと起き上がり、黙ってベッドから外へ出ていこうとする。不審に思った母親が声をかけると「しらぬ」と呟き、そのまま歩き出してしまった。
慌てて腕を掴み、荷物を取りまとめると、家に連れ帰ったのだという。
「家に帰っても、物珍しそうに風呂場や冷蔵庫を眺め、炊飯器のご飯を全部食べてしまったそうです」
母が病院へ行こうというが、頑なにそれを拒み、パジャマに着替えたままジッと炊飯器を見つめ、なかを覗く、をくりかえしていた。
「母が何をしているのか聞くと、<飯が出てくるのを待っている>と答えたそうです」
彼女はそのまま父親が帰宅するまで炊飯器を眺め続けた。母からの連絡を受けた父が早めに帰ってくると、いきなり居住まいを正し、正座して頭を下げた。そして自分は<ワキヤトキツレ>という人間だが、三日ほど彼女の躰をお借りしたいと告げた。三日経てば必ず帰るとも約束した。

同書 pp.153-154

このような吉田さんのふるまいに両親は「肝を抜かれた」そうだけど、

口調と顔つきはガラリと変わってしまっているが、自分の娘には間違いないので、話しを合わせることにした。また、週末だったこともあり、父が家にそのまま残っていられるというのも大きな理由になった。

同書 p.154

さてここからの三日間が「ワキヤトキツレ」の立ち居振る舞いの描写になるのだが、なかなか興味深い。まずワキヤトキツレは風呂が大好きである。

吉田さん――ワキヤトキツレは風呂を好んだ。朝から入ると昼までに何度も入り直した。またテレビやラジオを嫌い、外出するのを拒んだ。

同書 p.154

また、吉田さんいわく

「一度、父が車で外に連れ出したらしいんですけど、目を回してしまったそうなんです。その時、しきりにオゾシ、オゾシと呟いていたそうです」

p.154

食べ物や夜のすごし方については、こう書かれている。

肉は臭いと云って食わず、ひたすら白米だけを海苔や漬け物、魚とともに嬉しそうに食べ、あとはテレビや照明を消した室内から、ぼんやり月を見上げていたという。

p.154

そうやって三日間がすぎ、いよいよ別れの日がやってくる。

三日目の晩、ワキヤトキツレは深夜、両親の部屋を訪れると礼を云った。
そして自分は無実の罪で首を斬り落とされたのだが無念の余り、このままでは死に切れぬと天に直訴したのだと告げた。
躰は滅んでいるだろうが、魂がこの様な奇遇にまみえたのは僥倖(ぎょうこう)であった。貴殿の子々孫々までのご多幸を祈念する……そう告げると、そのままがったり正座のまま崩れるようになった。

pp.154-155

こうして、ワキヤトキツレは去り、その後、吉田さんの病気はウソのように回復しただけでなく、やがて大学受験ではD判定だった第一志望に合格し、さらにお父さんはプロジェクトが当たって出世したのだそうである。

両親は、吉田さんが大学生になるまでこのことをだまっていたのだそうだが、今でも吉田家には、ワキヤトキツレの声のテープが残っているそうだ。

考察――鎌倉末期の武人では?

さて以上が、3ページ半のふしぎな話の大雑把な流れなのだが、ここからはぼくの推測を付け加えて掘り下げてみたい。

まず「ワキヤトキツレ」というとまるで暗号みたいで日本人の名前ではないようだけど、かりに

ワキヤ・トキツレ

とするとどうだろう?

「脇谷」もしくは「脇屋」だった可能性が出てくる。そして「わきや 武士」でGoogle検索するとWikipediaで以下のページがヒットするのである。

脇屋義助(わきやよしすけ)
新田 義助/脇屋 義助(にった よしすけ/わきや よしすけ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期の武将。新田朝氏の次男。新田義貞の弟。兄の義貞に従い鎌倉幕府の倒幕に寄与するとともに、兄の死後は南朝軍の大将の一人として北陸・四国を転戦したが志半ばで死去した。

Wikipedia 脇屋義助

このように、鎌倉時代末期から南北朝にかけては「脇屋氏」という武家がいたことはたしからしい。ちなみに、義助は伊予の国で亡くなったそうなので、ぼくもまんざら無縁というわけではない。

そのうえで、「トキツレ」は時連ではないかという推測が浮かんだので、ためしに「時連 武士」で検索してみたところ、これまたWikipediaがヒットし、鎌倉時代に北条時連(ほうじょうときつら)という武家がいたことがわかった。

北条 時連(ほうじょう ときつら)
鎌倉幕府初代連署・北条時房の別名。
北条時連 (時房流) - 北条時直の子。時房の孫。

Wikipedia 北条時連

このようにちょっとした検索で、この物語の時代背景が「鎌倉末期」にグーっと絞られてきた。そして以上を総合すると「ワキヤトキツレ」とは

脇屋時連

という鎌倉末期の武家ではなかっただろうかという疑いが生じてきた。

もちろん以上は、「あくまでオカルト話と考えれば・・」という話であって、単なる精神疾患だと思ってもらってもかまわないのだが、ここではそういう可能性はわきに置いて、想像力をたよりに先へ進めてみたい。

さて、ワキヤトキツレは、クルマでお父さんに連れまわされたときにさかんに「オゾシオゾシ」と呟いていたそうだが、これもためしに検索してみるとウェブリオの古語辞典がヒットする。

おぞ・し 【悍し】
②恐ろしい。こわい。
出典源氏物語 蜻蛉
「おどろおどろしく、おぞきやうなり」
[訳] ぎょうぎょうしく、恐ろしいようすである。

weblio古語辞典

「オゾシオゾシ」はたぶん「おそろし おそろし」だったのだろう。ワキヤトキツレは、車に乗せられてずいぶん恐ろしかったのだろう。

また、彼の言葉づかいからは武家の雰囲気が伝わってくるので、首をはねられたといっても、庶民が犯罪者と間違われてお役所に引っ立てられたということではなさそうだ。

南北朝の動乱期に、権力闘争の中でわなに陥れられ、首をはねられたのかもしれない。その無念を捨てきれずに下界におりてきたのではないだろうか・・とまあ、こういう風に考えてみればわりとつじつまがあうのです。

この推測の上に立つなら、ワキヤトキツレとの出会いは、鎌倉時代~南北朝に生きた武家のじっさいの立ち居振る舞いをリアルタイムで観察できる得難いチャンスだと考えられるわけだ。

ワキヤトキツレの行動パターン

さて、「ワキヤトキツレ」の特徴としては以下のような点が挙げられるだろう。

①礼儀正しいが、男尊女卑
②風呂に何度も入る
③ご飯が大好きで。肉が嫌い
④夜は電気をつけず、月を見ている

まず①についてだが、ワキヤトキツレは、学校でお母さんに対しては「しらぬ」などと無礼な態度をとっているし、家に連れ帰っても勝手にご飯をたいらげるなど、勝手なふるまいをしている。

ところで、ちょっと話がそれるけど、じっと炊飯器を見つめて「飯が出てくるのを待っている」という言葉からはどうやら炊飯器を

メシが湧いてくる魔法の米びつ

だと思っていたフシがある。

それはともかく、一家の主(あるじ)であるお父さんが帰ってくると急に正座して頭を下げ「三日間だけ体をお借りしたい」と礼儀正しくふるまう。

これだけの礼儀作法をわきまえた人が、一方でお母さんに傍若無人な態度をとっていたということは、ワキヤトキツレが不作法だというよりも、女性への傲慢な態度も含めて「礼儀作法として」仕込まれていた人のように思われる。

そもそも、現代の考え方では、吉田さんのカラダは吉田さんのモノである。しかし、ワキヤトキツレは、吉田さん本人にもお母さんにもまったく断ることなく、吉田さんのお父さんに向かって

体をお借りしたい

といっている、このあたり、吉田さんの体の所有権はお父さんにあると言わんばかりの態度だ。

鎌倉末期から南北朝のころの武家の、女性に対する標準的な態度はこうだったのかなあ・・という推測が成り立つわけで、これはや絵では伝えられない部分を補う、貴重な資料のように思えるのです。

風呂と白飯

さて、①の考察が長くなってしまったので、あとははしょっていくけど、②の「風呂に何度も入る」のは、鎌倉のころには風呂が貴重なものだったからではないだろうか。

いまなら水道の蛇口をひねればお湯が出るけど、鎌倉時代には井戸から何度も何度も水を汲まなければ風呂はいっぱいにならない。

その上で、薪を割って焚かなければ湯を沸かすこともできないので、殆どの場合は水浴びで済ませていたのではないだろうか。

温泉が湧いている場所でのみ、朝から晩まで何度でも入っていたのではないだろうかと考えてみると、ワキヤトキツレがやたら風呂をありがたがり、くりかえし入浴するのもうなずける。

次に③の「白飯ばかりよろこんで食べている」についてだが、肉食が日本で普及したのは明治時代で、最初は牛肉も

乳臭い

といって嫌う人が多かったと聞くので、これもうなずける話だ。南北朝の頃は、たとえ脇屋氏といえども、白いご飯(銀シャリ)がごちそうだったのではないか。

そして最後に④の「夜は電気を消して月を見ている」だが、鎌倉時代には電灯というものはもちろんない。時代劇などでは日が暮れた後にあんどんをつけて書物を読んだりするシーンがあるけど、鎌倉末期にはそんなものもなかったかもしれない。

日が暮れれば、月が出ていないかぎりは真っ暗闇で、寝るか、エッチをするくらいしかやることがなかったにちがいない。だからこそ、ワキヤトキツレは、

月が出ているので今晩は明るいなあ・・

などと思いながら、月を見つめてじっとしていたのではないだろうか。

こんな風に鎌倉時代の武家の立ち居振る舞いのリアルが、ワキヤトキツレの立ち居振る舞いから浮かび上がってくるような気がする。

三日間でなにをやりたいか

それにしてもだ。仮にあなたが天に直訴して、700年の時を越えてたった三日間だけこの世に帰ってきているとした場合、風呂と銀シャリを楽しむだけで満足できるだろうか。

現代では、庶民でも風呂は当たり前。銀シャリもあたりまえ。そんなものには飽き飽きしている。

むしろ「糖質制限ダイエット」で銀シャリには手をつけない人もいるだろう。また、せっかく帰ってきたのだから、どうせなら去年に帰してもらって

エヌビディアと東京エレクトロンの株を買いまくろう

などと考える人もいそうだが、ワキヤトキツレはちがっていた。

無実の罪で斬首され、700年後に戻ってきても、世を憂うでもなく、私腹を肥やすでもなく、ただ風呂をたのしみ、白飯を腹いっぱい食べて、満足してあの世に帰っていく。そして吉田家に福をもたらす。

ぼくには、彼の鎌倉武士らしいさっぱりした立ち居振る舞いが心にしみ、同時に現代人がどれほどめぐまれていることかとおもわされた。

それにしても「オカルトはそろそろやめよう」などと先週書いたくせにまた書いてしまった。宣言というのはあてにならない。

さて、最後になりますが、平山先生、勝手に引用させていただきました。ありがとうございました。

『こめかみ草紙』に収録されている話の中では、ワキヤトキツレの話は比較的わかりやすいほうだ。もっとわけのわからない話が満載なので、みなさん手に取ってみてください、ということを記して終わります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?