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人類は樹上生活している

樹上生活というのは、森の中で暮らすオランウータンや、ムササビや、コウモリの暮らし方を指す言葉だ。木の枝につかまったり、木の又に腰掛けたりして大半を過ごし、移動は木から木へ、枝から枝へ渡っていく。

一方で、人類は地上生活だと言われる。

1.若いころの樹上生活

でも、ぼくが学生だったころにはひとり暮らしで汚くしていると「樹上生活」と呼んでバカしていた。ひとり暮らしの部屋の中が散らかると、次第に居住空間が奪われ、ベッドの上と、玄関の前のわずかなすきま以外に居場所がなくなる。それらのスペースをムササビのように移動する姿が樹上生活と呼ばれていた。

今でもごみ屋敷で暮らしている人は、樹上生活者に見える。

2.昨日までの樹上生活

そして、ぼく自身、最近、あやうく樹上生活化しそうになっていた。本があふれ、生活パターンが変わったのが原因だ。

パソコンは、デスクトップとノートの2台を使っているんだけど、去年までは机に座ってデスクトップを触るのがメインで、ノートは寝転がっている時のサブだった。

しかし、今年は机に座ることが減ったので、どうしても邪魔な本を机の上に置いたり、椅子の足の周りに置いたりしてしまう。

それを動かすのがおっくうになり、その上にさらに積む。そうすると机に座るのがおっくうになって、寝転がってノートPCに向かう時間が増える。モノを書くときも、ノートPCをひざにのせ、天板を机代わりにして書いたりしていたが、

これは例の樹上生活ではないか(汗)。

と気づいたので、今日は奮起して机の周りを片付けて、机に座っていたんだけどやはりそのほうがいろいろとはかどる。

忙しいときには、この机で毎日十数時間以上すごしていたわけで、手を伸ばせる範囲にあらゆるものを置いている。長距離トラックの運転席なみの狭くて快適な空間であり、コックピット感がすごい。

3.本日の樹上生活

ただし、長時間机に座っていると、これはこれで

かなりの樹上生活

なのである。地面に降りたというより、ベッドという樹上から、机という樹上にわたった感じに近い。

しかし、考えてみれば家というのはそもそも、そういうものではないだろうか。屋内に特定の居場所がいくつかあって、そのあいだを点と点をつなぐように移動して暮らしている。

たとえば台所。あれも一種のコックピットで、鍋、包丁、調味料、水道などがすべて手に取れる範囲にある。それからテレビの前もそう。

4.人類の樹上生活

樹上というのは高いところにいるということではなくて、居場所が特定のポイントになっており、そのあいだを点と点をつなぐように移動して暮らしているということじゃないかな。だとすれば、人間は今も昔もそこそこ樹上生活者なわけで「人間が地上生活をしている」のは半分まちがいではないか。

オランウータンは、孤独をこよなく愛するので、いわば樹上のおひとり様である。一方、サバンナで地上生活しているのは個体ではなくて群れである。シマウマの群れとか。

人間には両方の面があり、机や台所ではおひとりさまの樹上生活者だが、会議室に集まったり、コンサートに集まったりすると地上にくらす群れになる。

このちがいは、野球とサッカーでイメージするとわかりやすい。

野球は、キャッチャー、ピッチャー、サード、レフトというふうにグラウンド全体に居場所が散らばっているので9人のオランウータンである。一方、サッカーは全体で攻め上がったり引いて守ったりするので、11人のシマウマに近い。

こうして人類には両面があるわけだけど、ぼくのみたところ、平和な時には樹上生活者が増えて、非常時になると群れるようだ。

5.人類の地上生活

たとえば、今ウクライナでは人の群れがぶつかりあっているけど、完全に非常時だ。シリア内戦が悪化した時も、大量の難民がヨーロッパに渡って問題になったが、あれも群れの移動だった。日本でも大地震が起こると、被災地の人々が体育館に集まるが、あれも群れの移動といえる。いずれも長く続くと苦しい。

流浪の民というのはジプシーのことだそうだが、さすらいの生活は苦しいので多くの人は本拠地を求める。

ぼくが今、机の前のコックピットに座って居心地よく感じるのも日本が平和で、自分が人口密集地にいるからで、非常時になればシマウマのように群れるのだろう。

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