理解されないことの恐ろしさ
自分の好きなもので、その良さをなかなか人に伝えられないようなものってあるでしょう。誰にでもなにかしら、そういうものがあると思う。食べ物かもしれないし、ファッションかもしれないし、趣味かもしれないけど。
どんな分野にも、人にわかってもらいやすいものと、なかかな伝わらないものがある。前者は「共感を得やすいもの」で、後者は「共感されにくいもの」だといえるかもしれない。
食べ物にも、だれにでもすぐにおいしいといってもらえるものもあれば、自分は好きでも多くの人からはマズいと言われてしまうようなものがあるはずだ。
どちらであろうと、好きなモノは自分の一部分だといえるし、それが否定されるのは、自分の一部分が否定されているのに近い。LGBTQの人がツラいのも「自分の好き」が多くの人から否定されてしまうからで、それは自分が否定されているのと同じだと思う。
ぼくは、このnoteでウケ狙いの記事を書くことが多く、しかも自虐的な笑いを狙うことが多いのだが、それは「だれかに理解されたい」気持ちが強いからだろう。
その気持ちの背後には、そうでもしないと自分は理解されないのだ、というあきらめと恐れのようなものが潜んでいる気がする。
酷評されている『プラネット・オブ・ロボット』
今日、アマゾンで『プラネット・オブ・ロボット』という映画を見たんだけど、この映画はレビュー欄で酷評されている。見た人の42%が最低評価の★1つをつけており、★2つと合わせると65%の人が低評価を下している。
低評価のレビューをざっと眺めてみると、
などなど。これだけ読むととんでもない駄作に思われそうだが、一方で★5つを付けている人も1割いて
などと評価しているので、真っ二つに分かれているといえる。
ぼく自身、あまりの低評価に見るのをためらったのだが、「迷うなら絶対に観るべき」という言葉におされて見始めて、すぐに「駄作」ではないととわかった。迷いなく★5つをつける。
一方で、これだけの低評価がついていることを恐ろしく感じる。どうしてこんなことになってしまうのか。
理解されないことの恐ろしさ
もしぼくが映画製作にかかわる人生だったとして、そして才能と運に恵まれたとすれば、もしかしたら、この作品にやや劣るくらいのものを作れていたかもしれないと思う。
もしそうなっていたなら、自分を誇りに思っただろうし、人生のホームランだ!と思ったことだろう。それでも、この映画以下の酷評を受けることになっていたはずだ。見た人の6割から「イライラする」「不快になる実にひどい映像」「10円でも、お金払ってまで見たいと思わない」と言われてしまっていたのだろう。
これらのレビューを読んで、まるで自分が否定されているように感じるし、どう気持ちを整理すればいいのかわからないし、世間を恐ろしいと感じる。
まだ才能の底が見えていないところがあるので、どうか酷評にめげないで、次の映画に取り組んでほしい。