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クリームソーダのチェリーを見てもカリ梅としか思えない

この暑い中、なんのあてもなく街に繰り出して案の定何もすることがなく、とっさに入った喫茶店でクリームソーダを頼んだ。

無心で上部のアイスクリームを貪っていたら、アイスと氷の間ぐらいに赤くて丸い物体が一つ浮かんでる。

コンビニ弁当の上に乗ってるカリ梅かと思ったそれは、チェリーだった。





まさか本気でクリームソーダにカリ梅が入っていると思ったわけではない。クリームソーダのチェリーを見ても「コンビニ弁当のカリ梅」としか感じられなくなっているという、私自身の心の「干からび」に恐れ慄いているのだ。

雨に降られたら乾いてた街が滲んで綺麗な光を放つ 心さえ渇いてなければどんな景色も宝石に変わる(エソラ/Mr.Children)

何かに感動するのもエネルギーがいる。対象から発せられる何かを受け取ろうとするにも、受け取るだけのスペースを空けたり、受け取るぞーと思うだけの気力とエネルギーがいるものだ、と、このごろはつくづく感じる。

だから何かに感動できるというのはそれだけで、心が健全なのだ。エネルギーに満ち溢れている。

どうも最近はエネルギー不足で、受け取ることも、与えることも、できない。

受け取りたいと思うのに、それすらも余裕がない。そんなもの受け取りたくないと思うことばかりで、じゃあ私が本当にほしいものってなんなの?と自問自答。

何にもないすっからかんの状態だから、与えるなんてもっと考えられない。

受け取りもせず、与えもしない、完全なる無の境地。こういう時期はひたすら一人で部屋に篭って、むくむくと動き出せる時を待つしかないのだ。