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「死んでしまえ!」から始まる異世界転生――『無職転生』vs.『幼女戦記』『オーバーロード』『転生したらスライムだった件』etc.            転生志望者のための『(異世界)転生物語批判序説』――すべての「転生」は失敗であるか?


こんにちは。筆者のユルグです。

今回も恒例、「奥行きのあるラジオ」のアンケート「2021年秋アニメで一番面白かったアニメを教えてください!」で紹介された、筆者ユルグの1位作品『無職転生 ~異世界行ったら本気だす~ 第2クール』の投稿文の全文(&加筆)を公開します。

以下👇が紹介された動画のリンクです。


はい。そうです、今回投稿文は、ほぼホストの鳴海さんによる要約にて紹介されたわけですが、それがどうしてかは読んでいただければおわかりになるかと思います(たぶん)。

今回は最初に概要を付しました。ではどうぞ。

*注
投稿先のラジオのパーソナリティーである鳴海氏、ミヤ氏に宛てた投稿文という性格の再現の目的(と言いつつかなり変わってますが…)として、誤字脱字、推敲不足によって文意が明らかでなかった箇所を修正しました。
またあらためて全体のスタイルを整え、加筆修正を施しました。

読みやすさのため元投稿文を分割し、見出しを今回新たに付しました。

本論は『無職転生』、『幼女戦記』、『オーバーロード』、『転生したらスライムだった件』について触れるますが、すべてアニメにのみ準拠しています。原作等の他メディアの内容を含んでのものではありません。



👼はじめに/概要


本論はアニメ『無職転生』を一種の〈ゴースト・ストーリー〉として見ることで、「前世」では果たされなかったものが何であったのかを、「転生」を契機として事後的に発見することを目指す。

先回りするとそれは「現実」としての「異世界」「他者/自己」に向き合い、出逢い直すことである。

その道行きに、『転生したらスライムだった件』『幼女戦記』『オーバーロード』(※「転移」)に通底する「他者」への〈殺意〉とそれがもたらす〈抑圧〉〈死〉の原因を〈偽装した自殺〉による「転生」にあるとして摘出する。

最後にこれらの作品の虚無的性格から導かれる〈「転生」のパラドックス〉とそのひとつの帰結である先送りされた「前世」と対峙した『無職転生』前世の「わたし」との和解「他者」への愛に開かれていく期待を誘う物語であることを確認する。


👼イントロダクション
 アニメが〈ゴースト〉を描くものだとしたら


お題である2021年秋クールで「一番面白かったアニメ」『見える子ちゃん』となるが、今回はあえてカテゴリーエラーである「一番伝えたいことがあるアニメ」である『無職転生』を推す。


実は両作どちらも、筆者がアニメを特に〈ゴースト・ストーリー(幽霊譚)〉の観点から特別視している点で、それぞれ別の側面から、まさしく如実に語られるべき2作品となる。

個人的にアニメを〈ゴースト・ストーリー〉として見るとは、そもそも「アニメ―ション」の語源が「アニマ(魂)」を獲得することにあるからには、それが常に「屍人」「半死人」と境を接しているという前提を意味するだけではない。
ここではわかりやすく具体例を一つだけ例示するにとどめる。

それは『劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を、〈愛してる〉の妄執に取り憑かれた半死人の少女が、戦火から現世にさまよい出て、亡霊となった男とこの世では叶わぬ出会いを果たす〈ゴースト・ストーリー〉とみなしてみるというものだ。

以上の観点から詳説したものが以下の論考である👇

分割版は👇から


アニメに限らずおよそ「虚構」というものは、その出生の根源に、この世ではありえなかった、本当はそうあったかもしれない「物語」という〈願い〉があるはずだ。そうでなければただの「絵空事」過ぎなくなる。

この視点をプリミティブな〈ゴースト・ストーリー〉的解釈の導きの糸としよう。


👼あなたを殺したのは誰か?


本作『無職転生』の他の側面の魅力は1クール目でもいくらか語ったので、今回は〈ゴースト・ストーリー〉として見たとき、そこにはらまれるある示唆について、少しだけ真面目に探り出してみよう。

それは「転生ものにおける〈死と殺意の行方〉」だ。

とりあえず、「死んで転生」しているのだから、その後は「死後の生」であろう。
つまり「幽霊」であり、「幽霊」であるからには何らかの「想い」、それは「心残り」「怨念」であり、「幽霊」とはその「想い」と別のものではない。

本来なら本作の魅力にだけ絞るべきかもしれないが、今回、そのためには他の「転生もの」作品との比較が不可避となるのをご了承願いたい(もちろんここで取り上げる諸作品のいささか偏僻な読解の文責はすべて筆者にある)。

まずはWikipediaからあらすじ冒頭を引用する。

「現代日本に暮らす20年近く引きこもる34歳無職の主人公は、親が死去したのに伴い兄弟に見限られて家を追い出されてしまう。家を出た後、トラックに轢かれかけた高校生3人を助けようとして事故死してしまう。」

いわゆる「転生もの」の、こうした「どういう境遇」「どういう人物」「どういう理由」「どういう形」「転生」するかが、ここで主張する趣旨を伝えるうえで重要になる。
つまりこれらの作品の傾向性をカテゴライズしてみることが、先の〈死と殺意の行方〉を見る上で欠かせない。

このあらすじだけでも本作がどんな物語であり、今後どういう展開を見せるかがすでに示されている。

主人公はまた似たような巡り合わせとその変わらなさと繰り返しへの葛藤に出くわし、煩悶し、時に同じ行動を繰り返し、時には別の選択をし、そしてそれから、前世とは別の人生を歩むことになるだろうと。

しかし数ある転生ものの原作小説からアニメ化され、その中でも特に人気作となった作品において、こうした素直な王道ストーリーをたどるものは珍しい。
それは本作があったがための差異化による特殊化であるというだけではないと考える。

そこで、人気を博す他の「転生もの」と差別化される本作の特徴を浮き彫りにするための指針が、作品に陰に陽に触れてくる〈自殺と他殺〉というキーワードだ。
これらがどこから発生してその影響を作品に及ぼしているのかをそれぞれ確認してみる。
〈自殺〉〈他殺〉をもたらした〈殺意〉とその〈死〉がどのようにそれぞれの作品に表れているかを見てみたい。

それでは今回のかたき役となる作品に登場願おう。

歴代「なろう」累計ランキング堂々1位の
『転生したらスライムだった件』『無職転生』は2位)、
ともに「Arcadia」で連載が始まり、アニメ続編も準備している
『幼女戦記』
『オーバーロード』(こちらは正確には「転生」ではなく「転移」)
の3作だ。

この3作品に共通する〈死と殺意の行方〉とはなにか?

端的に答える前に、ひとつの前提を置きたい。

それは〈自殺〉という〈殺意〉と〈他殺〉〈殺人〉の〈殺意〉の起源は同じものであるというものだ(もちろんこれは限定的で普遍的ではない)。

どこまで実感として一般的に共有されうるか難しいところだが、思春期、あるいはそれ以上に、それ以降に憑かれたように勃発する激烈な〈殺人衝動〉が実際のところ〈自殺〉つまり〈自己の破滅〉と表裏であることはままあると解されよう。

例えばこんな感じだ(✤読了までのBGMに)。

それを嘆いて誰かが歌って 

それに感化された少年が 

ナイフを持って走った


              カンザキイオリ「命に嫌われている。」より
✤数あるカバーから。
少年の〈殺意〉を少女の声でうたわれるこの倒錯についても一考したいが別の機会に。さらに「転生もの」における転生者が女性である場合には何がいえるのかもまた。

現実ではナイフを持って外に出るのが少年から中年以降(「転生」適齢期)となっているが……。

ではサスペンドした3作品の共通点である〈死と殺意の行方〉を続けよう。

それは現世での幕の閉じ方が隠蔽された〈自殺〉であるということだ。

つまり現世における現状への〈殺意〉こそが、無意識的な他の手段を介在させることで、〈自殺に見せない自殺〉である〈転生〉を引き起こす

『転スラ』では通り魔という他者に投影した〈殺意〉であり、
『幼女戦記』では逆恨みからの(というていの)〈殺意〉
『オバロ』は天涯孤独で鬱屈した毎日からの〈殺意〉
が別の世界へと彼らを誘う。〈自殺〉を。


👼ただ/逃れ/た/その/先/で


問題はここからだ。
なぜに彼らは死ぬのか?
なぜ別の世界に転生し、転移するのか?

それはもちろんよく言われるように、現実での不満から脱して、異世界でそれを解消することではあるだろう。

しかし重要なのは、これらの作品で、自らに巧妙に隠した〈自殺〉〈殺意〉が、それを否認してしまった形で実現させてしまったがゆえに、この他者に転嫁した〈自殺〉の〈殺意〉は、こんどは悠然と、異世界で〈他者〉への〈殺意〉として反転する。
そして「転生」後も、あいも変わらずその根源に向き合うことなく、むしろ全面的に解放される。
結果そこにあるのは大量の〈死〉の積み上げだ。

『転スラ』では主人公は見せ場として、殺された仲間を生き返らせるための贄のために、なんの躊躇もなく、何万もの命を一瞬にして消し去る。
『幼女戦記』は前線での命のやり取りに辟易しているが、その韜晦、何歩も目の前の世界を引いて見る目線の拠って立つ立場は、どこまでも己の有能さとの戯れと優越しかなく、非常に虚無的だ。
『オバロ』においては多言を要しない。

また、『幼女戦記』『オバロ』両作に濃密に漂う「破滅」の予兆も見逃せない。それは巧妙なエクスキューズだが、自らが抱えている虚無を証している刻印となっている。

いずれもその〈死〉をもたらす行為によって自覚的に命の軽さを表現している、ということですらないのは明白だ。
そして、どの作品も自分自身であれ、仲間であれ、徹底した身内びいきで排他的であることに揺るぎなく、その外の「他者」に対しての排除が貫徹しているのも特徴となる。

果たしてこれが「現実」において、あるいは不満があったり、辛かったり、あるいはなんとなく退屈だったりして煩悶し、苦しんだ自分と存在した世界を消し去ってまで本当に実現したかったことなのだろうか?
どこかおかしな陥穽に陥っている。

なぜこうなるのか?
なぜ他者の〈命〉を刈り取ることになんら葛藤を覚えないのか?
そこに逡巡と葛藤がないのか?
これはキャラクターの設定レベルではなく作品自体の根幹となる構造であり、その意味で興味深い徴候であることは間違いない(「転生もの」ではないがこの構造の最たるものとして『魔法科高校の劣等生』がある)。

ここで疑問を覚えるかもしれない。
〈隠蔽された自殺〉を実行した主体はなにか、誰か?
「異世界」での〈殺意〉を実行した主体はなにか、誰か?
作者の欲望か?キャラクターレベルのものか?読者の欲望にこたえるためのものか?
それらは意識的、意図的なものか?それとも無意識的なものか?
当然これらにたいするこたえは重層的なものだ。
つまり作者の領域と主人公の領域と作品自体のもつ傾向性の領域というそれぞれのレイヤーがあり、かつそれらは混交している。
よって、〈隠蔽された自殺〉「異世界」での〈殺害〉もその実行者の欲望の主体をかんたんには特定はできない、というよりしないことが趣旨にかなうものである。
本論はその匿名の(無意識の)意志の帰属先を追求するものではなく、この〈隠蔽された自殺〉と「異世界」の〈死〉をもたらす条件それとは別の「異世界転生」のあり方を可能にした条件を浮き彫りにし、両者を分けるものとはなにかを追求するものである。

以上これらから現代社会や人間性の宿痾の反映を示す作品群であるとする社会反映論的批評はひかえる。
あくまでも「転生ものにおける〈死と殺意の行方〉」についていえることを明らかにしていこう。
そしてそれが本作『無職転生』「何でないか」も同時に教えてくれる。


👼異世界転生のパラドックス



〈死〉からの逃避〈自殺〉〈殺人〉の〈殺意〉からの逃避の結果はどうなるのか。
その隠匿した意志から目を背けることは、死してもなお、より固陋に自身から隠蔽され続けることになる。

そしていつか「前世の現実」という「他者」に向けられた〈殺意〉は解消されることなく「転生」先の「自分」も殺し続け、その時自分は〈怨霊〉となっていることにも気づくこともなく、次に別の誰か〈殺意〉を向け続けることになる。

そこでの〈殺人〉とはかつて「前世」において「他者」におぶわせて自分に向けたものである(偽装された〈自殺〉)。

死した「亡霊」は、今度は「もうひとつの現実」における抑圧自体に自分自身がなってしまっていることに気づかないままだ。

どの作品においても彼ら主人公は変化をしていない。
「前世」「現実」でそうであったように、「転生」した「現実」においても問題は先送りにされているだけだ。

彼らはその先送りのために、手にした絶大な権能を他者未満の他者にふるい続ける。

逃亡先の世界で夢想する彼らは、だからどこまでもその世界における「客人」であり「余所者」でしかない。

繰り返すがこの虚無的な作品構造は蟻地獄のような現実描写としてある意味正しい。
ゆえにもしその作品内で、以上の認識に気づいて世界に向き合うならば、自己批評的に解体することができたならば、そのときには、稀代の傑作の誕生の可能性はあるだろう(おそらく)。
(✤このあとすぐ私たちはこれらの「(異世界)転生」ものそのままでなにを示唆するものでありうるか、その正体のひとつを見ることになる。)

では最後に『無職転生』「何でないか」ではなく「何であるか」「なぜそうなったのか」をそもそも「転生」とは何であるか、何であり得るかの若干の考究からまとめていこう。

とはいっても本作『無職転生』は、新たに人生を歩む者それぞれの旅程は千差万別であろうとも、言葉にしてしまえばあまりに真っ当でありきたりな人生訓を回避すると、ほとんど残るものはない。そしてそれでいい。

だから、ここでは『無職転生』と差別化した「(異世界)転生」ものを最初の一歩であった〈ゴースト・ストーリー〉にもう一度立ち戻ることで先に進めよう。

私たちは日々、この現実世界の日常を、ゴースト、死者たちとともに生きている。
それはふだん意識することもないほど自然に。
言葉、思考、法、科学技術、神話、土地、風景、歴史、倫理、宗教、文化、芸術、衣食住、諸々すべてのうちに「死者」は息づいている。
「死者という他者」と関わることで生かされるいる。そして彼らとどのように向き合うか、対話するかいかんが生きることだといえるし、そうすることによってかろうじて生きることができる。

ここでは先を急ぎこれ以上「死者とともに生きる」ことに深入りはしない。
代わりに関連書籍を紹介だけしておく。

ひとが死者とのつながりを失うことがどういうことかを精神医学の視点から探るものとして👇
渡辺哲夫『死と狂気』、ちくま学芸文庫、2002年
ここに6人の重篤な精神分裂病者がいる。“死”にとりまかれた彼らの狂気を診るにつけ、その病の本質がみえてくる。“死者”を死者たらしめることができないとき、人は狂気の淵をのぞきこむ。翻って、私たちの生は、無量無数の死者たちに支えられ、歴史として構造化される時初めて、主体性を贈与されるのだ。私たちは死者によって生かされている。日本独自な民俗的土着信仰、他界観を規定する死者たちをも射程に入れながら展開するわれわれの精神史の古層からの狂気論。内容(「BOOK」データベースより)

先の震災で生まれた死者のあらわれをさまざまな宗教者たちの構えの差異や遺族と土地の住人たちの実地での調査から浮かび上がらせるものとして👇
高橋原、 堀江宗正『死者の力: 津波被災地「霊的体験」の死生学』、岩波書店、2021年
私たちは、死者とどう生きてきたのか。東日本大震災の津波被災地で語られる「霊」体験。物語の力、宗教伝統や儀礼の役割、死者による生者のケア…。被災地住民と宗教者への聴き取りに基づき、「死者の力」に迫る。【「TRC MARC」の商品解説】
東日本大震災の津波被災地でしばしば語られる「霊」体験。メディアで取り上げられ、多くの人々の関心を集めてきた。この切実な体験をどう考えるか。物語の力、伝統宗教や習俗、儀礼との関わり、残された人の心身のケア、共同体における作用等から「死者の力」に迫る。被災地住民と宗教者への聞き取りに基づいた調査研究の決定版。

主に本国の戦争とかかわる〈怪異〉と「死者」がフィクションの中に生きるさまを炙り出す論考を輯めたものとして👇
怪異怪談研究会 (監修)、〈怪異〉とナショナリズム、青弓社、2021年
文学作品、怪談、天皇制、マルクス主義と陰謀論…。〈怪異〉とナショナリズムとの関係性を戦争・政治・モダニズムという3つの視点から読み解き、両者が乱反射しながら共存した近代日本の時代性を浮き彫りにする。【「TRC MARC」の商品解説】
人々を政治的・社会的・文化的に統合し均質化する近代の国民国家は、非合理な他者の一つとして〈怪異〉を排除した。だが〈怪異〉はそのような近代社会と緊張関係をはらみながら様々に表象され、ナショナリズムにときに対抗し、ときに加担してきた。
戦前・戦後の文学作品、怪談、史跡、天皇制、二・二六事件、マルクス主義と陰謀論、オカルトブーム――〈怪異〉にまつわる戦前・戦後の小説や史料、事件、社会的な現象を取り上げて、「戦争」「政治」「モダニズム」という3つの視点からナショナリズムとの関係性を読み解く。
〈怪異〉とナショナリズムが乱反射しながら共存した近代日本の時代性を浮き彫りにして、両者の奇妙な関係を多面的に照らし出す。【商品解説】


哲学者ハンナ・アレント孤独(ソリチュード)と寂しさ(ロンリネス)を区別した。
彼女によるとわたしは孤独の中で私自身と対話するのだという。
それにたいして、寂しさは私自身と一緒にいることに耐えられないこと、だからこそ他の人を探してしまうのだという。(國分功一郎、千葉雅也『言語が消滅する前に』、幻冬舎新書、2022年、p93)

この「孤独の中で対話する私自身」という「もうひとりのわたし」「転生」によって生まれる「死者としてのわたし」とした場合には、この対話こそが、「死者とともにあることが生きることである」ということの根拠地の様相を呈してくる。

ここにこれまでに触れた「異世界転生」ものをクリティークするひとつの基準を見よう。
それは「転生(者)が他者を愛するとはどのようなことか」ということだ。
「他者に愛される」ではない。それはつまるところ愛を欲することであり、せいぜい他者の期待や何らかの外的な需要と要請に答えようとする他律に過ぎない。
また「愛されるためにはまず愛さなければならない」というクリシェに立ち寄りたいのでもない。それもまた「愛されるための」他律となるだろう。

ただ愛する、純粋な贈与として他者に愛を与える、まずそうしたいのであれば、わたしたち生者は、死者たちの無念と後悔と憎悪と相対していること、そして何よりはじめに葬った「死者としての他者」が自分自身であったことに孤独の中で気づき、向き合い、和解することからはじめなければならないはずだ。

いつまでも、どこまでも「わたしである死者」との対話から逃げ続けるものに「生きた他者」への愛を見ることは不可能だろう。

もちろん「異世界転生」もうひとつの生ではなくただのゲームに過ぎないというなら、いかなる人生もゲームそのものであるというなら、そこに「死者」とともに生きることや「他者」を愛することを持ち込むことは無意味で無粋なことだ。

そこには〈死〉がない。「死者」がいない。誰も生きていない。生者がいない。死者未満、生者未満が徘徊する世界だと言おう。そこには「アニマ〈魂〉」のない、ゲームとなった世界だけがある。

冒頭にこう記していた。

本論はアニメ『無職転生』を一種のゴースト・ストーリー〉として見ることで、「前世」では果たされなかったものが何であったのかを、「転生」を契機として事後的に発見することを目指す。

ここにこの「事後的な発見」の否定面があらわれた。
そのテーゼを一言でいえば、

「(異世界)転生」ものは「(異世界)転生」を自己否定する。

ということだ。
「(異世界)転生作品」こそがもっとも「転生」から遠い、ということを示唆するという逆理。
「転生」するその「生」が、「転生」することに失敗する。
「転生」者こそが「転生」者ではないという「転生」のパラドックス

「死者」とともに生きる「生」ではない「生」「転生」に失敗する。
それにとどまらず、この「転生」を打ち消す事後性は「転生前」にも及ぶ

「転生」不可能な「わたし」には「他者」も、愛するものも、ことも、なにもない。
遡及する「転生」失敗の契機は、ついに「わたし自身」に突き当たる。
そこにあるのはそもそも「転生」する原資を欠いた「生者」でも「死者」でもない、ただ「なにものでもないなにか」だ。

「転生」がその「転生」を契機とすることで自己消滅を証すという帰結。
これこそが虚無の根源だ。


👼Take care of yourself in the other world.



「転生」「転生」ではなかった。
「転生」することのできない「なにものでもないなにか」は死ぬことができないからだ。

ではこの「なにものでもないなにか」とは何なのか?

自らを掘り崩す「転生」
という死者未満のなにか〈怨霊〉であるしかないのか。
「死者」とその想いと感応する〈ゴースト・ストーリー〉からの乖離を特徴としている「転生」の反面教師である「(異世界)転生」の勃興現象はなにを指し示すのか?
「転生」という消失する媒介者の帰趨になにがあるのか?
「転生」を騙ることによってかえって「転生」の自己破壊を喧伝することの意味とはなにか?


ひとまずここにこだますこえをつぶさに聞き取ってみよう。

〈隠蔽された自殺〉〈殺意〉「他者」への〈殺意〉となるのだった。
この「わたし自身」に殺された「死者としてのわたし」との対話から目をそらすことが「死者とともにあることが生きることである」ことを否定してしまう。
これが「転生」の失敗だった。

ではここから逆に最初の〈隠蔽された自殺〉をさらに遡源しよう。
もう一度ここからはじめてみよう。
そこにあったものに耳を傾けてみよう。

そこにあったのは
「殺してやる」
「死んでしまえ」
というこえ。

このこえはこう聴こえないだろうか?
それは
「死にたい」
であり
さらに
同時に
これは
「殺さないで」
なのだと。

そうなのだとすれば、
この呪詛とは
どこかのだれかである
「他者」に助けを求めるこえであること、
これを聴き取る「誰か」を呼ぶこえ、「誰か」を求めるこえ
この苛烈な「わたし」の断末魔の叫びをまずはじめにきくことが
「わたし」への願いとなるかもしれないこと。

「わたし」のこえを「わたし」がきくとき、
「わたし」の願いを「わたし」がきくとき、
はじめてもうひとつの「生」「転生」が萌芽する。

それがあるのだということ、ありうるのだということ。
この〈殺意〉を〈救済〉の願いとする「わたし」になる
ということは同時に
誰かの「死にたい」と「殺さないで」をきく「わたし」ではない「他者」の座も用意する。
空位の座の誕生。
この空位に招かれる「他者」、馳せ参じる「他者」
とは「わたし」であり「あなた」でもある。

「殺してやる」
「死んでしまえ」
という
「わたし」への呼びごえ
ふたりの「他者」

「わたし」のこえが「誰か」に聞き届けられるかもしれないことは、
「わたし」「誰か」のこえを聞き届けることでもあったということでもあり、
そのときこそ
「転生したのではない、させられたのだ」
という
〈隠蔽された自殺〉に向きあって受け止めることになる

ここから「生者」「死者」のこえをきく「転生」がはじまるのだろう。

「死にたい」と「殺さないで」を咆哮する「他者」に出逢うために、
「この世界」の中での「転生」果たすことで


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


『無職転生』には充実がある。期待がある。
「死者」とともに生きる世界への、愛したいと想える「他者」への、そこに生きる「自分自身」への、人生への、いつまでも、どこまでも、かろうじての期待。

その充実と期待の最初の出逢い。

ルーデウスにあったもの、
そして杉田にあったもの、
彼らにあったものとは、
それは「前世の世界」への〈殺意〉であり、
「自分」への〈殺意〉であり、
それによって零れ落ちたもうひとつの人生への後悔であり、
最後に、それでも「他者」のために命を投げ出した自分自身であり、
そしてそれらをきちんと見届けたからこそ出逢えた、
「自分という他者」の守護霊、
ガーディアンとなったもうひとりの自分
だろう。

               
               Take care of yourself in the other world.



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