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人の道徳とは実体験に形取られていくのか 事実を受け止める心と想像力をもつこと その1

道徳が教科になった。
評価の仕方が大きく変わった。(全教科で三観点になった。)
何らかの教育系の仕事に関わっていると、この二つの改訂は小さいニュースではないのではないか。
前にもこのnoteのマガジンに書いたが、何を目指しているのかもどこに向かっているのかもイマイチわかりにくい。仕事としてかかわっているにも関わらずそうなのだから、突然変わった通知表を見た親たちはもっとわからないのではないか。
学びに向かう態度、知識・技能、思考・判断・表現、全教科これで評価してある。特に高校受験や大学受験のシステムが変わったわけでもないので、親の中には【変わったからといって、何なの?】的な受け止め方をしている人も少なくないのではないか。
すでに、学校はいろんな視点から「期待されていない」とさえ感じる。こうなると学校はもはや、ただの託児所だ。

さて、期待されていないというところで、いつか後輩からこんなメールが届いたことを思い出した。小学校や中学校で教えている道徳について意見を交えていたら、それって一体何なのかという起源説にまで波及した。それには彼の体験も関わっていると感じた。
彼が読んだ本に書いてあったことに納得したことや実際に経験したことが、道徳観に影響をしている。人は誰しもそうなのであろうが。
以下は彼からのメールの一部抜粋。

『いじめの構造』なる新書に、いじめ発生のメカニズムが書いてありました。要は、優等生ほどいじめをする、という事実です。
 高い道徳的心情をもつ(もたされる)生徒ほど、できていない生徒に対して「なんでできないんだ!」と、憎悪の感情を抱くというのです。自粛警察がはびこるのも、この道徳教育がしっかりしているお陰ではないか、と。
 かく言う自分自身も、このことを実感する出来事がありました。
 6月、実家の前で三輪自転車ごと倒れて動かないお年寄りを発見し、後頭部から血を流して気を失っていたので、急いで救急車を呼びました。妻の呼びかけでようやく意識を取り戻し、「救急車を呼びましたよ」という言葉をかけたそのとき。
 急に目を見開いて、「なんでそんなことをするんだ。やめろ!」と、滑舌の悪い大きな声で叫び出しました。
「頭から血が出ているので、動かないでください」と言ってみても、全く聞かず、ろくに動かない身体で立ち去ろうとします。
 いい加減アタマにきて、「危ないから動かない!」と強く制すると、老人は私を睨みつけて「なんだ?オウこのやろう…」といきり立つ始末。
 救急隊員にも悪態を吐き、なんとかなだめすかして救急車で運ばれていきました。
 本気で、「○○!」と思いました。しばらく怒りが収まりませんでした。助けてもらっておいて、感謝しないどころか悪態をつくとは何事か。理解不能。人としての最低限の礼儀もわきまえない輩。
 どんな事情があれ、助けてもらったら「ありがとう」だろうが。人を助けてこんな気分になるなんて思いもしませんでした。
 感謝されることなど、露ほども求めてはいません。それでも、まさか敵意を向けられることになろうとは。

いやあ、怒ってるなあ。
そもそもの発端は、ある教育機関の実話が元になっている。
子どもが自ら命を断ってしまうという本当に残念なニュースを時折目にする。その教育機関は、その事実に直面してしまったのだ。
受け止めがたい事実は変えようもない事実であり、その教育機関のみにとどまらず、市をあげてその問題に取り組んだ。
新聞紙上を賑わせた市が講じた対策。多くの手立てが講じられたが、その一つに『道徳教育の充実を図る』という無形の対策があった。
そして、その対策をはかった後の現場の実態は、ニュースに取り上げられることはなかった。

だが、彼は、その実態を知っていた。
道徳観とは人の実体験とは切り離せない。メールには、事実を知った彼の叫びが込められていたのだろう。
その2へ続きます。


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