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人の道徳とは実体験に形取られていくのか 事実を受け止める心と想像力をもつこと その2

実態とは報道されにくいもの。だから、庶民の私には想像するしかない。その1にも書いたが、市が講じた対策である『道徳教育の充実』が図られたその教育機関のその後はどうなったのかは、そこの生徒と教員しか知るよしはないのである。

『道徳教育の充実』とはどういう意味なのだろうか。道徳の授業の回数を増やすのか。いや、決められたカリキュラムがある以上、そんな勝手なことはできない。教員同士で道徳の授業を見せ合うのか。いや、研修のためにそういうことをすることはあるが、そんなに頻繁にすることはできないだろう。普段の生活や普段の授業のことあるごとに、道徳道徳と言い続けるのか。いやもう、そんなものは道徳観の押し売りであり、実際にはできっこない。
では、どういう取り組みをすると、充実させたって言い切ることができるんだろうか。

その教育機関は、上記のことを全てやった。

道徳の授業をやりまくった。
教員間で道徳の授業を見る機会を設けまくった。
通常生活のいたるところで道徳道徳と言い続けた。
その結果は……。

まず、親からの反応。当初はそれなりの反応だったらしいが、目に余るところが多かったのだろう。
「道徳やりすぎて他の授業ができていない」「授業参観で他の教科の授業が見たい」など、次第に風向きが変わる。

では、肝心の生徒の反応は?
週に1回しかないはずの道徳がその枠を越えて頻繁に行われ、その都度その都度生徒は道徳心を問われる。しかも、道徳心とは人から授けられるものではないという考えの基、結論の部分を生徒自身の考えに委ねるという授業を繰り返される。
今言われている「考え、議論する道徳」だ。
だが、果たしてそれで本当に道徳観が身につくのだろうか。道徳心といっても良い。
道徳の時間になると、誰が見ていようとふざけた意見を言う生徒が現れる。
一つのクラスに何人も道徳の時間に机に伏せて寝ている生徒がいる。
これが実態だそうだ。

家に帰ってテレビをつければ、ワイドショーなどで大人たちが「正義」を振りかざして大衆に迎合される意見を述べる。昨日まで味方だったような関係でも、何かが原因で大衆から攻撃される側に回った者を徹底的に叩く。以前からおかしいと感じていましたみたいなこと言って必死に大衆側に立とうとする。
スマホを見れば同じようにネットニュースで叩き合っている。SNSで誹謗中傷を書き込んでいるのも大人か。
どちらを見ても、大人が繰り返し同じことを垂れ流している。鮮度があるうちに先んじて。
そこに道徳観などかけらもない。

そんな大人に道徳観について毎日のように考えろ考えろと言われたら……。
子どもたちは敏感である。考えるフリをするしかなくなる。そこに“どうしても考えなければならない”という切実感はないのだから。
なぜ考えるフリをしなければならないのか。なぜ、自分に嘘をついて、求められている正しい答えを言わなければならないのか。子どもは賢い。考えなければならないときは、必死で考える。知的好奇心は子どもの方が高いのだから。
道徳の時間にふざけるのも、道徳の時間に寝るのも、大人たちの欺瞞を嗅ぎ取った子どもの本音だろう。私たちはいつまでこのお遊戯に付き合わなきゃいけないのか、という。

そして、その教育機関は、かつてなく荒れたのだという。
その3に続きます。)


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