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人の道徳とは実体験に形取られていくのか 事実を受け止める心と想像力をもつこと その3

その2で書かれた事実。いや、実態という方が適切か。

人の道徳心に期待するということは、決して間違った行為だとは思わない。むしろ、そこに期待する方が人間らしいとさえ思っている。
しかし、教育現場ではどうだろうか。

子どもは、未熟であるが故に子どもである。したがって、道徳心もやっぱり未熟だ。そこに、恐怖心を植え付けてしまってはいつかの日本になってしまう。洗脳するようなことがあっては決してならない。
だからこそ、教育現場では子どもの未熟なや心を踏まえながら、正しいこと教える必要があるのではないか。無理矢理押しつけるのではなく、理解を示しながら導くことは必要ではないか。
その子どもなりの知識や経験があるということはもちろん尊重したい。しかし、あくまでもその子どもなりでしかない。言い方はキツいかも知れないが、未熟であり無知であるのが子どもだろう。だからこそ、子どもは可能性を無限に秘めていると言えるのだから。

現実として、人が集まれば「いじめ」とも呼べてしまう集団意識が存在してしまう。それは人の業とでも言えてしまうかもしれない。
人は劣等感の塊をどこかに持っている。だから自分ができることを他人ができないと「なんでできないんだ」という感情が湧いてくる。それは、「人より劣っていない」という感情が己を支えてくれているということでもある。
自分の存在価値がそこにあり、自分が生きているということを確認している。いや、実感と言うべきだろうか。
とするならば、いじめの一端は、間違いなくいじめる側の感情のコントロールのためだろうと容易に想像できる。
だからこそ、どんな理由があろうとも、いじめた側が悪いと言える。
ハンムラビ法典を採用して、目には目を歯には歯を味わわせればいじめなくなるのか。そういうストーリーのお話はいくつも目にしたことはあるが。

そういうことに対して、いじめた側の気持ちといじめられた側の気持ちを想像させて(考えさえて)、何が悪かったとか、どこに原因があったのかとかを議論させるの!?子どもたちだけで!?
いやいや、ちょっと待ってくれ。どんな議論がそこにあろうと、まずもっていじめた側が悪いに決まってんじゃん。子どもどうしの議論にどんな結論を期待しているのだろうか。そして、大人が期待したような結論に至らなかったときどうするのか。
そこに、指導者が大人として教えるべきことは存在していないのだろうか。
「そんなことで自分の感情をコントロールしてんじゃねえ。それは生きてる証でも何でもねえ。」と、大人が言わなくて誰が言うのだろう。

子ども同士で『考え、議論』させれば、子どもは望ましく成長すると、本気で文科省の官僚とその関係の有識者たちは思っているのか。考えることも議論することもとても大切なことなのはわかる。が、指針はどこにあるのだろうか。経験の乏しい者同士が議論して、経験値が高い者の思考にたどり着けるのだろうか。

だから、大人の責任は重いのだ。
人のSNSに無駄な書き込みをしている暇はない。
ワイドショーのように人を叩いて自分を正当化していては子どもに見透かされる。
その覚悟を持って道徳を育ててほしい。自分を語ってほしい。
自分を語れるということが、自分の道徳心であろうから。

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