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いつでも会える人は いつまでも会えない ~「新教育」より~

私が尊敬する先生が、20年ほど前に書かれた文章。今、私は当時のその先生の年齢を上回っている。しかし、その理念は足下にも及ばない。

「抵抗としての教育」

  事物とは本来、いとおしさの涙を浮かべながら見るべきであろう。死んだら、もうこの世界には戻れないのだ――そう、「知る」と「死ぬ」は近
> い。われわれは死ぬことを知っているので、生の有限性を自覚することができる。絶望することができる。知るとは、だから、大なり小なりの自己の変容を伴う。知る度に、人は変わっていく。だが、つくづく知ることができないので、変われないのだ。感性が知性を含んで、ともに動いたとき時、「ふうん」が「つくづく」となる。
 知性は習得性のものであり、感性は生得性のものである。知性は手段を提供し、感性は目的を与えてくれる。知性は相対的であり、感性は絶対的である。ゆえに、学校教育は、知力の向上に重きがおかれ、生徒たちは順位を上げることに熱心となり、出た順位で自分の集団での位置を――それこそつくづくと――知り、それが自分の全体の評価だと判断してしまう。そんなことも多かったのではないか。これまでは。
「新教育」は、この反省の上にたっていると思いたい。われわれ教師は子ども一人ひとりの絶対性を尊重することが大切である。その中心である感性は、人や自然、ものとの体験的な深い関わりによって育まれる。感動することによって可能である、より深い心からの自己の客観視も感性を明確にする。ほとんどの場合、長いプロセスを経て、知らず知らずのうちに培われていく。その現れは忽然であることが多い。試行錯誤や何度もの失敗、苦痛の後にやってくることも特徴だ。時間をかけることが必要である。――だから教育における対症療法的な指導の多くは、無効である。
 感性は、伝わり、響き合う。われわれ教師も、同じ時代に生きている。自分という全体を受け入れ、目の前の現実をよく見て、真に「知る」ことにより、自己変革を繰り返し、難しいことだが、自己一致への努力を続けるしかないだろう。そのあり方が、生徒に「(人)格」となって、伝わっていく。
 今、同じ時代と言った。この時代やこの時代に生きるわれわれを評し『安楽』への全体主義」(藤田省三)とも「無痛文明」(森岡正博)とも、また、「人類の自己家畜化」(ローレンツ、小原秀雄ら)とも言う。「新教育」の考え方は、この時代への抵抗であると信じたい。教育が時代より先行して、時代を変えていかねば、われわれの仕事の意義とは一体何であろう?

自己一致とは。

そこに意志を持たねばと痛感します。

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