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13年前の育児日記②のおまけ いただいたコメントより(2020年)

前回の13年前の育児日記②を読んでくれた方にいただいた言葉が、言い得て妙すぎます。彼はすごいなあと思っていますが、どうしてこうも人の気持ちが理解できるのかとなお一層尊敬をしました。

育児は大変で、重労働で、年中休まるときはなくて、と、そのことを否定するつもりはないけれども、それで勝ち取った育児休暇という制度に対して、
「ゆりてるさんは育児休暇中でも出てきていた」という事実が<おもしろくない人>がいる。その訴えを上司が代弁した、ということなんだと思います。
「旅行もダメ」ということは、育児の最中に“旅行ができる”という状況があってはまずいということなんでしょうね。この制度の出所が福祉ではなくて「被害者」救済に依拠している(と認識されている)ことの証左であるように思います。「被害者」救済の制度は、その制度を利用する人を「被害者」という位置に呪縛し続ける制度になりうる危険性について人はもっと敏感であるべきだと思う。
支援や救済やサポートという類ものは、誰もが<当たり前に>それを享受するようになると、それを支援や救済やサポートとは認識しなくなるという矛盾を孕むものである気がします。本当はそれでいいのだけど、そうなることが<おもしろくない人>も間違いなくいるのでしょうね。

育休中に旅行に行けるなら働けよ???

2020年においてもまだまだこういった感覚の人はいるようだ。育休取って、育休中に精一杯育児をして、でも旅行にも買い物にもいって、職場へ戻ったら居場所がない……。

私は一年という期間思い切って育休を取りましたが、一ヶ月の人も三ヶ月の人もいるだろう。時は流れるでしょうし、新たな人材が台頭しているだろう。だからといって居場所がないのもなんだかなあ。

育児は育休中だけするものじゃない。小学生でも中学生でも病気はするだろう。高校生だっていろんな悩みをかかえるだろう。だんだんと手はかからなくなっていくが、親は死ぬまで親である。まして、育休が終わっても、まだまだ子どもが小さいときは思わぬ事態がやってくることだってある。職場に居づらいような気持ちになって、結局やめてしまうのはもったいない人もいる。(もちろんそうでない人もいる。)

当たり前に慣れずに、当たり前が広がってほしい。

いただいた言葉で痛切に感じるのは、支援や救済やサポートという類ものは、誰もが<当たり前に>それを享受するようになると、それを支援や救済やサポートとは認識しなくなるという矛盾を孕むという言葉。サポートなくして育休は存在しない。育休を取る側も権利だけを主張して後ろ足で砂をかけるように取るはずがない(と信じている)。当たり前に享受できるようになってほしいし、当たり前に感謝する気持ちを持ち続けるべきであろう。

新しいウィルスで当たり前を取り上げられ、当たり前をなくして、当たり前を欲する今。なくさないと感謝できない自分に反省である。

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