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占星学の視点で捉える善と悪

紫陽花が美しい季節ですね♡
雨もまた趣があります。


さて、とある文献によりますと、「占星学は天文学を含む総合的な科学」であるそうです。4000年続く最古の学問と言えるであろう占星学。それは占いなどではなく、そもそも、あらゆる科学の大元であったーーとの解説は、私にはとても納得のできるものです。


astrologyをそのまま訳すと「星たちの学問」です。それなのに、なぜ「占星術」と訳されたのかはわかりませんが、一抹の違和感が生じます。違和感というものはとても大切なもので、それをなかったことにするのは違うと思うのです。感覚は意識(命・全体性)と繋がっている信号のようなものだからです。


近年、「意識」というものが、特に量子力学や数学の分野で、いよいよ解明されつつあります。魚座時代の常識であった「物理次元の科学」においては「意識」がすっぽりと抜け落ちており、この世界の姿を半分しか解明できません。


反対に、霊感やスピリチュアルというものも、同じく半分だけの世界ではないのか?と感じるようになりました。意識と物質、霊性と現象はひとつです。同じコインの裏表。ひとつであるものをふたつに分離させ、それを信じさせることで、私たちを「とても振動数の粗い次元に閉じ込めている」のではないだろうか。


物理的反応と現象だけに焦点を当てる科学には、意識という原因が存在せず、すべては偶然の産物になってしまいます。そこでは、命はただの物体であり、物量としての身体が消えると無になります。個々の命の尊厳性、精神性や人間性というものも希薄になりますね。



また、意識や見えないものだけに焦点を当てるスピリチュアルの視点では、物理次元の神秘や結果を(実質的に)重視しません。エネルギーがわかる、高次元が○○と言っているーーそれも大事なことですね。しかし、ここは時間と空間が存在している現象世界であり、物理次元を通した体験や叡智こそが主たるテーマではないでしょうか。(霊性だけだと着地感が全くない世界、言うたもん勝ちの世界になりますw)


随分長い間、ユリシスは「霊性・スピリチュアル」に傾きすぎていました。そんな自分自身に対して、いつもどこかに「違和感」を抱いていました。ふわっとしていて、自分の軸を何かに預けているような感覚、地に足のつかない感覚・・・深いところでは、言いようのない不安定な感覚があったのです。



しかし、占星学と出会うことでそれが解消され、私は救われました。ただ「感じる」とか「見えない世界の神秘を追求するだけ」では得られなかった「失われた半身」を取り戻しました。目に見えない「霊性・意識」を目に見える「学問」を通して追求する。時間と空間の中で、物理的体験<学習と考察>を積み重ねていくことで、ようやく地に足がつき、確実な「結果」を得ることができます。現象世界で「創造する」という大いなる喜びを知りました。



学問や芸術、あらゆるツールは、現象世界に足をつけるための碇(いかり)でもあり、意識や霊性が証し(あかし)されるための確かなもの、私にとってはそれが占星学でした。そして、この「地の要素」こそが、圧倒的に私に欠落していたものーーだったのです。



この物理次元の中で「意識」を掘り下げていくならば、何らかの「物質的事象」を通す必要があったのです。意識は表現され形になる「場」を求めています。物理的な場を得られなかった意識は雲散霧消してしまいます。それが学問なのか、音楽・アートなのか、ダンスなのか・・・それだけの違いです。霊性と物質が融合している地点で創造するーーそれが地球という場の喜びであり、太陽の表現だと思うのです。まさに、肉体を持った地球人であることの醍醐味!



やはり、すべての物事は片方だけでは不安定です。どちらを突き詰めても、全体の半分しか捉えられないことになります。ゆえに、両方の視点を持つことが大切。そして、それは「自分の中の矛盾を統合していく」ことに尽きます。



意識(霊性・スピリチュアル)が発動すれば、現実(現象・物質)が動きます。それに伴う「然るべき結果」が出ないとおかしいのです。占星学の視点で見ると、ふわっとしたスピリチュアルや偶像崇拝的宗教が受け入れられる時代は、やがて終焉するでしょう。本当の霊性なるものは、物理次元でも証明されるはずなのです。そうでない場合は「エネルギーが証しされる場」を失うからです。(半霊半物質)



だからこそ、水瓶座時代は厳しい時代でもあります。自分の意識の在りようが現象化するまでのタイムラグがどんどん短くなっていると感じます。意識と物理現象がひとつであるということは、すべての極と極は同じコインの裏表であるーーということと同義になります。すべては自分自身であるという事実から逃げようがない時代なのです。(大変に厳しいハードルですよね、これは・・・)



以前、善と悪について考え抜いたことがあります。なぜ、こんなにも悪が蔓延しているのか?なぜ、地球には悲しみと苦しみが溢れているのか?なぜ、命や地球を破壊しても、何とも思わない存在がいるのか?なぜ、自分だけがよければいいと思えるのか?
なぜ?なぜ?なぜ?・・・どこまでも考え続けました。



最終的に、私が得た結論は「悪がないと困る!悪がないと退屈で死ぬ!」でした。ずっと平安で、何の変化も成長もない現実が、このまま500年続くとしたらどうですか?歳もとらず、死ぬこともできず、苦しみもない代わりに何の感動もない世界。揺らぎのない固定された状態を永遠に繰り返すだけーーーこれほどの地獄があるでしょうかwユリシスは耐えられません。確実に窒息するでしょう。



悪があるからこそドラマと変化が生まれ、苦しみと悲しみと同量の感動が生まれます。



そして、悪というものの気持ちを想像してみました。なぜなら、私の中に巨大な「悪」があるからです。だから、想像もできるのです。「悪」なるものは私の中にこそあります。心の中で「あんな奴、死ねばいいのに」と思ったことだってあります。命ある限り、そのような自己保存の意識はなくならないでしょう。でも、悪を全面行使しても幸せを感じないと知っているから、「使わない」だけです。



支配層・コントロールする側である「悪なるもの」の土台には「優性思想」があります。優れた者が生き残り、劣っている者は淘汰されて然るべきーーーという「信念」です。それが如何なる代物であるのか、ひたすら掘り下げていきました。あらゆる情報から、また自分自身の内側の悪なるものから、ありとあらゆる方向から、それを考察しました。




究極までそれを掘り下げると「愛」なんです。なんと、愛だったんです・・・それに気が付いた時、得体の知れない畏れと感動で、身体がガタガタと震えそうになりました。




あらゆる「悪」は、彼らなりの「愛」の表現なのです。一般人は劣っていて愚かな存在だ。だから、真実を知らないうちに淘汰してあげる方がいいのだ。それが愛である。劣っている者は生きるに値せずーーという強い信念であり、愛の一表現だったのです。



そうでなくては、同じ人間である我々を、ここまで理不尽なコントロールや重税で締め上げることができるでしょうか?そのような信念がなければ、同胞の自由と尊厳を奪い、取り憑かれたように搾取し続けることができるでしょうか?無理です。つまり、それが彼らの信じる道であり、愛の表現なのです。



これはユリシスが感じたことであり、個人的にたどり着いたひとつの答えに過ぎません。大事なことは「自分が幸せになる考え方を採用する」ことだと思うのです。善悪という観念よりも「自分自身と全体の可能性を拡げる考え方を選び、私たちの繋がりを取り戻すことができるような、より上位の概念で古い概念を上書きし続ける」ことだと思うのです。



少なくとも、悪を悪だとして、問題を問題だとして、怒り戦うことは同じフィールドの極と極なのです。それでは相手にエネルギーを与えているに過ぎず、同じ土俵の上で踊らされているだけなのです。創造とは決してその場所にはないーーそれが私なりの体験を通じてわかったことでもあります。



その言語化できない圧倒的気づきも、占星学の世界で証明されます。すべての反対要素をひとつに融合すること、私たちはすべての天体を使うことができるということ、すべてのサインとハウスを使うことができるということ・・・アセンダントとディセンダントはふたつでひとつ、ICとMCもふたつでひとつ、ドラゴンヘッドとテイルもふたつでひとつ。そして、太陽と月もツインなのです。



つまり、善悪とは概念上の産物であり、体験・現象という視点で捉えると「同じもの・同じエネルギーが逆方向を向いているだけのもの」ということがわかります。悪の中にある必要性、悪の中にある愛、悪の中にある存在価値・・・



悪を理解して受け入れること、悪に感謝することーーーその広く高い視点、一段飛び越えた次元を、占星学は教えているのです。綺麗ごとではなく、支配する存在たちや私たちを苦しめる存在たちにも、素直にありがとうという気持ちになりました。彼らは創造の達人です。意識にブレがないのです。徹底的に「悪」なのです。徹底的に「自分自身」です。その点、学ぶことはたくさんあります。



善と悪は同じもの。それを理解した上で、我々も「創造権を行使」すればいいのです。善が好きな人たちは創造の方法を間違えていますw概念を超えているからこそ、彼らは思うままに現実を創造してきたわけです。善悪を超えていないのは、私たち一般人の方かもしれませんよね・・・悪を否定する必要はないんです。否定すると創造エネルギーが消えていきますもの。



ユリシスは悪が蔓延している世界が心地いいとは感じません。命が虐げられている世界を素晴らしいとは思いません。だから、否定や怒りではなく「自分が望む世界」を創造します。戦いや否定に使うエネルギーを反転させて、「創造」に使う。その方が幸せだからそうしています。悪を悪だ!として戦うエネルギーのすべてを、創造方向へと反転させて使う、その方がエキサイティングです。その方が楽しくて喜びに溢れています。そして、それこそが合理的なのです。



自分が幸せになれる概念を、自分が喜びを感じる方法を、自分が楽に感謝していられる在り方を「選択」すればいいんだよ。すべては自由に決めていいんだよーーーそのように星は伝えてくれます。悪もあっていいじゃないですか。すべては愛の表現なのですから。



それに、どんな恐ろしい武器も電磁波も薬品も・・・無条件肯定や感謝や許しの振動数の前では何の力も持ちません。概念という恐怖の中で揺れながら、二極の体験と創造の力を行使するためのドラマを、私たちは楽しんでいるのですね。ユリシスにはそれが一番しっくりくる「理解」です。恐れもまた味わい深いものです。



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