純文学の衰退

おはようございます。 

初投稿です。 

初投稿は純文学が置かれている状況について、記事を書こうと思います。

まず、現代において純文学はどういった意義を持つのかについて簡単に問う事から始めたいと思います。

自分自身、純文学とは"自身の経験に基づき、純文学的に抽出した自身の目次録"だと感じています。 

勿論、純文学に対しての解釈は人それぞれですが、私自身は今の言葉は間違いでないと思っています。別にこの解釈がどれ程合っているのかインターネットの皆さんと競いたい訳ではなく、一般的な意見に近いであろう純文学の基準を提示したつもりです。

簡単に言えば、小中に虐められっ子だった方々は純文学作品を創作しようとする場合に、その陰湿な陰を直接か遠回しにでも引用すると言いたいのです。

つまり、その人自身の独特の色が出るのが純文学だと言いたいのです。

そして、ここから大衆文学を一旦引用しますが、大衆文学は純文学とは異なる物ですよね。謂わば、瓜二つとは言えない、ただ全くの別物でもない代物です。

大衆文学の特徴をいえば、ドラマ化、劇場化などを狙った、若しくはそれを行いやすい作品だと私は定義しています。そして、現代ではその大衆文学が全国の書店で表だって並べられています。

それはそうです。一般層が購入していくものは、いつだって一般層に需要のある大衆文学です。

其方の方がわかり易く、内容も理解しやすく、良い意味でも悪い意味でも頭に入り易くサッと消えやすい都合の良い消費物の様な物だからです。

別にそれが悪いとは思っていませんが、それと反比例して年々純文学に対する人々の興味、需要が減ってきていると個人的に思います。

元々、純文学というのはアウトロー側の消費物の様なものですので、確かに普段あまり読書などをされない一般層からはウケが悪かったり、興味を持たれないのは仕方ない事だと思いますが、年々その傾向が強くなってきていると感じます。 

そのお陰で出版業界は大衆文学に力を入れる一方で、純文学を疎かにしているとひしひしと感じます。純文学のワナビー達は年々肩身が狭くなり、偏向した道に心を閉ざす方々もきっと多い筈です。

純文学とは、自由であり、極端な話。どんな表現でも許されていいと個人的に思っています。勿論、どんな過激な表現でも許されるわけではないのですが、そのくらいの気概で書くべき自由奔放な芸術作品だと思います。

純文学は、芸術作品である絵画が文字に変わっただけの様な物で、個人の表現したい芸術が文字としてそこに現れている作品です。その様な文化が徐々に衰退していく様は悲しいとしか言葉にできません。

この様な時代だからこそ、今から純文学を志す方々には大衆文学の様な"フェイク"ではなく、"リアル"な作品を創作して頂きたいです。 

受賞を目的とせず、各個人で販売する事も可能ですし、純文学の立ち位置を少しでも真面な方に持っていきたいですね。 











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