Hiphopと純文学の親和性
皆さんは、"ヒップホップと純文学"の親和性について考えた事がありますか。
私は何度も考えた事があります。
今からそれについて言及していきます。
◼️共通点
まず大きく共通する点が二つあり、
一つ目はどちらも"言葉の羅列"という事です。
お互い文字だけの単調な存在であり、ヒップホップは映像にパフォーマンス、口調、アーティストの格好など色々な要素は足されていますが、根幹は一緒です。
その"言葉"こそが心臓であり、本体であるのですから、ヒップホップアーティストの外面は純文学小説の表紙と何ら変わりません。
いくらイケてるアーティストでも、内面(作品)の出来が悪ければ誰も見向きもしませんし、そんな輩に付いていくのは外面だけしかみれない浅い方々でしょう。(敢えてそういった浅い層の需要を狙ったアーティストもいますが)
その言葉を積み重ねる事によって、読み手を納得させ、作品としての全体像を噛み締めさせる、謂わば言葉を売る作家でしかないのです。
二つ目の共通点は、"反社会的"という点です。
まず、
ヒップホップアーティストは大概不良です。
例外もいますが、大抵チンピラの様な方々です。アーティストとして活動してから自身の在り方が変わったアーティストも多いとは思いますが、まぁナリは悪いですし、大概主張も反社会的リリックです。これこそ謂わずもがなという点です。
勿論、反社会的ではあるのですが、ヒップホップアーティストの反社会性って実は経験に基づくものから生まれた一種の反動行為なので、純文学作品の"経験に基づく反社会性"と一致しているんですよね。
世間から見た純文学というのは"高潔で、清楚かつ逞しい印象"だと私は捉えているのですが、実はメッキを剥がすとただの反社会的な作品ばかりで。勿論、"反社会性を引用した上での表現"ではあるのですが、結果的にただのやさぐれた芸術的存在としか私は感じません。
誰もが知る太宰治なんか、やさぐれた人格の代表格であるのに、世間では悲劇の主人公扱いだったり。
そんな感じで、ヒップホップと純文学というのは"反社会性を帯びた言葉の羅列"と言っても過言ではないと、個人的に思っていました。
そもそも、ヒップホップってジャンルが結構あるんですが、その中でアーティストを分類するのに"リリシスト"という括りがあります。
リリシストとは、"詩" つまり歌詞を丁寧に扱い、重点をそこに置いているヒップホップアーティストを指すのですが、これこそ純文学作品そのものなんですよね。なんならリリシストアーティストの歌詞をそのまま、「純文学作品」の中に刷り込んでも違和感が全くないくらい綺麗な言葉の羅列をつくりあげています。
因みに、著者は "釈迦坊主" がすきです。
是非、よければ聴いてみて下さい。
という事で、最後にまとめますが
純文学とヒップホップ。
一見関係の無さそうなこの二つのコンテンツ。
実は何方も"言葉"を丁寧に扱う不良というオチです。
それだけでした。
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