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生きているもの、生きていたものの匂い

詩集「詩、海、おにぎり」小見山転子(書肆ブン発行)
2023年に刊行された、小見山転子さんの第二詩集です。
(筆名を変更されてからは初の詩集になります)

現代詩手帖の投稿欄をきっかけに交流をもつようになった転子さんとの色々は、また別の機会にお話しするとして。
今日は、詩集「詩、海、おにぎり」の印象、感想などを書いてみようと思います。

詩と海とおにぎり。みっつを並べて置いてみたら、全く関係なさそうなものたちがゆるくつながって曖昧に漂い始める時。それは混沌が「詩」として立ち上る瞬間なのだな、と感じます。あるいは、最初からそこに漂っていたのを何かしらの操作で「詩」と呼べるよう可視化された瞬間。

この詩集の中には、生きている人と「生きていた」人が多数見られます。生きている側と思われる語り手にも時々、「生きていた」側から見つめる視線がうかがえます。
死んでしまった友達、死ななかった自分。生きていた誰か、生きている他人。生き延びている、生きながらえてしまっている、悲しいほどに、それでも。

生きていてほしい、という願いと、死なないでほしい、という願いは、同じなのか?と私は時々考えたりします。自分自身が「生きたい」と思う時と「死にたくない」と思う時とでは、それぞれ状況が違うであろうというのは
なんとなく感じます。言語で説明するのは難しい、感覚的なもので、本能に近い部分かもしれません。

「庭で」という詩にはまさに、幾人かの「生きていた」人たちと語り手との邂逅のようなものが描かれています。しかし、けっして同化するわけではない。庭に埋まっている幾人かの人は、知り合いだったかもしれないし、見知らぬ古い人かもしれない。埋まっている土と語り手がつながるのは眠っている時なので、あるいは語り手自身も状態としては生きていると断言できないかもしれない。
埋まっている人は静かに、そこに「居る」のです。「在る」のではなく「居る」。生きていた人だからこそ、埋まった後もなお「生きていた」人としてそこに「居る」状態を続けている。そして語り手自身もまた、誰かにとっての庭に埋まった人になる。
その静かな庭に、「生きているもの」「生きていたもの」の匂いが確かにあるのを感じました。

詩も海も、同じ匂いがするのかもしれません。海の匂いは生きているものと生きていたものが混じった匂い。街にも東京にも、過去にも記憶にも、日々の暮らしにも、病にも、その匂いがきっとある。それらが「詩」として立つ瞬間、何か色々なものが腑に落ちるような気がしています。
具体的に何がどうなのかは分からないのですが、何かがすうっと喉を通って行くような、それでよかったんだなとホッとするような、そんな感じ。


詩集「詩、海、おにぎり」、表紙も不思議なやさしさを感じる素敵なイラストでイメージが深く広がっていきます。(絵:とうめいロボ)

大切に読み続けていきたい一冊です。


生きている実感
あの頃より
ずっとある
だからって
それがなんなの

(「おなか大切に」より)



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