頭が固いと言われて気づいたこと
私は近年人付き合いを苦痛に感じるようになっていた。
私の人付き合いの方法は、縁があった人に初めは好奇心で人に近寄り、適当に歓談。
「この人はきっとこういう人だ」と自己流に解釈。理解した(つもりになった)タイミングで飽きては離れる、を繰り返していた。(サイテー!!!)
なぜ?目的?
恥ずかしながら吐露すると、私は人生に血迷い、もはや途方に暮れていた。
そこで、あわよくば誰かが自分の才能を見出してくれたり、私の人生における正解を示してくれたりしだろうか?という淡い期待があったからだと思う。
そんなテイカー(=taker,受け取る人)思想だから、親友と自信持って呼べる友人も居なかった。
そして次第に「どの人間も大抵同じじゃないか」とつまらなくなり、徐々に人付き合いを苦痛に感じるようになっていったのだ。
しかしそれは、自分の狭い物差しに無理矢理に人をぶち込んで、分かった気になっていたからだったのだ。
他者も自分自身もそれぞれが無限の宇宙であり、全てを知ることは到底出来得ない。
【何でもかんでも白黒つけず、ぼんやりとしたものをぼんやりとしたまま捉える】という事を疎かにし、自分の知っている世界だけに固執していた。知らず知らずのうちに、、。
私は自我が育つにつれ、生きづらさを感じるようになった。その一因として
常に周囲の顔色を伺い、必ずしも本心ではない正しい行動を考え、完璧に実行することに心が囚われていた。
そうして気を遣いまくって、めちゃくちゃ頑張った挙句、いつも空回りしては途方に暮れていた。
ここで「頑張る」という表現が浮かぶのは無意識のうちに役を演じていたからである。自分の想像ででっち上げた「完璧な行動」シミュレーションを、自己を観察しながら忠実に演じていた。
でもまぁ、そんな風に無駄に力んで生きる必要は無かった。
最初から正解など求めなければ良いのだ。
海外に来て、同じシチュエーションでも取るリアクションは人それぞれだし、文化によって「失礼」に当たる行動も全く変わってくる。
ここから言えることは、
大抵の場合、正解はないということだ。
頭であれこれと考えずに、心で感じたことをパッと行動していればそれで良い、という事がハッキリした。
禅堂の師匠の「只、今を生きればよろしい」という言葉が、また一つ腑に落ちる体験となった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?