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写真は「本当」を映さない、しかし

中学生の頃、吹奏楽部でフルートを吹いていた。練習に使っていた教室の窓からは、グラウンドがよく見えた。束の間の休憩時間になると、同じフルートパートの友だちと窓辺にかけより、それぞれ好きな人の姿を探した。ふたりとも、野球部の男子に恋していたのだ(幸い、私たちは別の相手を好きだった)。

3階の教室からグラウンドはけっこう距離があるはずなのに、小さな人影を見ただけで「あ、いた」とわかる。

こんなに離れてるのに、彼のことだけはすぐ見つけられる。「これってけっこうすごいことだよね?恋の力って最強やね?」なんて、今思い出すと甘酸っぱさと恥ずかしさでどうかなってしまいそうな会話だけど、当時はわりと本気でそんなことを話していた。

彼の横顔を見るたびに「神の創りたもうた完璧なラインだ」と確信していたし、その人のまわりだけは発光しているような、とくべつ良い香りがしてきそうな、そんな気配を感じていた。

だけど私以外の人から見れば、彼はごくごくふつうの、丸坊主でやや細身の平凡な男の子に過ぎなかったと思う。すくなくとも、彼がタレント事務所からスカウトされるとか、他校からも女子が見にくるとか、そんなことは一度もなかった。


何が言いたいのかというと、あのとき私が彼のまわりに見ていた「キラキラ」は、私が自分の心の中で生み出したものだったということだ。

私の目が、私の心が、彼に「キラキラ」フィルターをかけていた。だけど、ほかの人から見て彼が絶世の美男子でなかったからと言って、だれが私の気持ちを「ウソだった」と言えよう?


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私がシャッターを切る瞬間というのは、あのころの「キラキラ」の名残のようなものだと思っている。

目の前の光景への、瞬間的な恋。

今、この瞬間、私の視線の先にある人への、物への、風景への、圧倒的な肯定。

今、(私にとって)あなたは美しい。

このカッコの中が、私にとっては大事なのだ。ほかの人がどう思おうが、関係ない。


「写真は主観的なツールだ」と批判されることもある。ほんの一瞬しか、一部しか切り取ることができないからだ。写真は決して「真を写す」とは限らない。週刊誌の写真がいい例だ。けれど私は報道カメラマンではないし、この主観性こそが私にとって写真をとる意味だと思っている。

別に、真を映さないからと言って、平気で嘘をつきたいとか、そんな話じゃない。

目の前の景色にたいして、人の数だけ「本当」があるよね、と思っていて、自分にとっての「本当」が他人と違ったって別にいいし、違うからこそ、私にはこう見えたんだよ、と伝えるのが楽しいのだ。


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去年、インドの写真をTwitterに上げたとき、「私の見たインドはこんなに綺麗じゃなかった」という反応をいくつかいただいた。


写真に対する褒め言葉としていただくこともあれば、「こんなのは本当のインドじゃない」というようなニュアンスを感じることもあった。

どちらも共通しているのは、「本当の」インドは小綺麗な場所なんかではなく、もっと混沌とした場所だ、というニュアンスだった。「加工のチカラでこんなふうになるんだ」というようなコメントもあった。

たしかに私はレタッチをしている。だけどレタッチはあくまで、私の感じた「キラキラ」を補助するためのものだ。

レタッチで色や明るさを調整する前から、私の中でそれは「美しい」景色だった。

たとえそのとき、足元に牛のフンが転がっていたとしても。耳元の蝿がうるさかったとしても。それでも、視神経に映った景色は「あ、美しい」と思ったのだ。それは誰がなんといおうと私の主観であって、誰も否定できない。


私の「本当」と、あなたの「本当」は、時として別物だ。だからこそ、写真はおもしろい。人の数だけ「本当」があるんだよ、あっていいんだよ。写真について考えるとき、私はいつもそういう結論にたどりつく。

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