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走るカオス、インドの列車にて 《後編》

前編はこちらからどうぞ


「あのう、ここ、私の席なんです…」

弱気になった水戸黄門のように、おそるおそる手をのばし、印籠代わりのiPhoneを突き出してみた。画面には、くだんの最先端アプリが表示され、私の席番号が示されている。

「ああ、ほんとだ」

画面を見たイカついダディがうなずく。それを合図に、ファミリーがいっせいに席を立つ。

表紙抜けするほどあっさりと空いた席に、肩にくいこんでいたバックパックをドカッと下ろした。ああよかった。これであとは6時間、車窓から砂漠をのんびり眺めながら、気が向いたら日記でも書こう。映画「ダージリン急行」のロケ地はこのあたりらしいから、サントラを聴きながら過ごすのも悪くない。

ちなみに今回予約した車両はボックスシートだった。日本のボックスシートは4席だけど、この座席は寝台にもなるタイプなので、実質2席分の広さをひとりで使えることになる。

向かい側に座るのはどんな人だろう。同じくジョードプルに向かう旅行者だと安心だな。

いそいそとおやつのクッキーを取り出し、早くチャイ売りにこないかな、と子どものように浮き足だっていた。


そのときだった。


向かいの席にぼふっと音を立てて座ったのは、あろうことか、さっき移動したはずのイカついダディだった。


ん?


どうやら私は勘違いしていたらしい。私の席に座っていた母子とイカついダディは、なんと家族ではなかったのだ。

勝手に座っていたのは母子だけで、ダディ(父親であることがわかった以上この呼び名は間違っているけれど)は、れっきとした向かいの席の切符の持ち主だった。

じゃあ席を立ったダディはどこへ行ってたのか?

答えは彼の手の中にあった。ちょっぴりお高い、チョコレートでコーティングされたタイプのクッキーの袋を持っている。リーゼントにサングラス姿のダディ、甘党だった。

「日本から?」ぼそりと彼が尋ねる。ひぇっと思いながら「はい」と答える。

「ほんものの日本人見るのは、初めてだ」ダディはすこし嬉しそうな顔をする。

名前を聞かれたので答え、ダディの名前もたずねた。

「マディだ」

ダディじゃなくて、マディだった。

ナイストゥーミチュー、と、とりあえず微笑んでみた。



・・・



しかしどうしよう。対面席で、おっかないインド人男性と二人きり。一度トイレにでも行って気分転換しよう。

「こっちのトイレのほうがキレイだぜ」マディが右をさす。


今のところ危険ではなさそうだし(見た目はこわいけど)、しつこく話しかけられたりもしていない。インドにいると、日本だったら一発アウト!なセクハラ発言もしょっちゅう耳にするけれど、不躾な視線も一切感じない。すこしでもヤバそうと思ったら席を移ろう。切符確認のときだけ戻ってくれば、なんとかなるでしょう。

脳内作戦会議を終えて席に戻ると、マディがサングラス姿からメガネに変身していた。


マディまじか、と思った。

そこにいたのは、さっきまでのイカつさとは打って変わって、柔和なお兄ちゃんバージョンのマディだった。

目元が変わるだけでこんなに印象が変わるのか。びっくりしてしまう。どこかで見たことのあるような顔だ。黄金虫のような、くりくりとした大きくて真っ黒な目。そうだ、若かりし頃のハグリッドのよう。

人を見た目で決めつけてはいけません・・・幼稚園生のころから嫌になるほど聞かされてきた教えを、反省しながら思い出す。


「ひとりで旅するのが好きなの?」好奇心いっぱい、という表情でマディが話しかけてくる。

こくりと頷き、私は答える。「誰かといると、その人たちとだけしか話さない。ひとりだと、出会った人と話すのが楽しい。ちょうど、今みたいに」ぽっと自分の口から出た言葉を、遅れて認識する。そうだ。ちょうど、今みたいに


「私はインドが好きだよ」と言うと、マディはニカッと笑って「俺もインドが好き」と答えた。彼の清々しい答えを、私はたいへん気に入った。


今度はマディが席を立った。ちょうどその直後、チャイワラー(チャイ売り)が来た。

ほんのすこし迷ったけど、「ふたつください」と言った。チョコレートクッキーを買う甘党のマディだ。きっとチャイも好きなはず。

マディが帰ってきた。なんとチャイワラーを連れている。「知ってるか、この人からチャイを買えるんだ」と言いながらカーテンをくぐってきたマディは、私の両手のチャイに気づく。「買い方、知ってたのか」

ふたりで計3杯のチャイ。それぞれが1杯目を飲み終わると、マディが器用に半分ずつ注いでくれた。


・・・


バラナシに行ったことを話すと、彼はとても嬉しそうな顔をした。

「バラナシには、シヴァ神がたくさん祀ってあったろ?」
「うん、どこもかしこもシヴァ神だった」

このタトゥーはね、シヴァ神へのお祈りなんだ。袖をまくり、タトゥーを見せてくれる。インドネシアで彫ったんだよ。インドネシアにも、シヴァを信仰する人たちがいるんだ。

タトゥーを見て条件反射的に「こわい人」とジャッジをくだした自分を、恥ずかしく思った。



ぽんずの旅の写真を見たい、と言うので、ベトナムやタイの写真を見せた。私の恋人の写真を見て「日本人の男はなんでみんな髪型が洗練されてるんだ?」と不思議がっていた。ベトナムはバイクがたくさん居て、と説明したけど、インド育ちのマディは「だからなんだ」という顔をしていた。


途中の停車駅で、マディはホームへ水を買いに行くと言った。
「ぽんずも何か要るか」と聞かれ、なぜか反射的に「ポテチお願い」と頼んでいた。

ホームから帰ってきた彼は、両手いっぱいにお菓子をかかえていた。いくつかの種類のポテチにクッキー、そして素焼きの器に入ったアイスクリーム。

お金を払おうとすると、ぶんぶんと手をふって断られた。

「ぽんずは初めて出会った日本人だからな」とにっこり笑う。

シートの上に、わあっとお菓子がならぶ。まるでハリーとロンが初めてホグワーツ特急に乗ったときみたいだ、と思う。秘密基地のようなコンパートメントで食べる、山盛りのお菓子。

素焼きの器に入ったアイスクリームはほどよく甘く、鼻に抜けるとちょっとスパイシーで、上に乗ったナッツとよく合った。このあたりのラジャスターンというエリアでしか食べられないらしい。

食後に口にするという、ローズの香りの清涼剤もくれた。わざわざ未開封のものを。口をさっぱりさせるためのものだと言っていたけれど、なぜかこれもスパイスの香りがした。

ポテチを食べたあと、指を拭くためのウェットティッシュを渡そうとしたら「いらない」と言われた。「水で洗わないと気持ち悪いんだよね」とのこと。日本人からすると、インドはなんだかあまり清潔ではなさそうなイメージがあったりするけれども、もしかすると「清潔」の基準や譲れないポイントが違うのかもしれない。言葉どおり、彼はこまめに指を洗いに行っていた。

「日本は子どもが少なくて困ってるんだろ」大学で経営を学んでいたという彼は、日本の現代事情についてもずいぶんよく知っていた。

「なんで子どもが少ないんだ」と聞かれ、とっさに出てきた私の答えは「子育ては、お金がかかるから」だった。「なら政府が教育にかかる費用を負担すればいいだろ、そのための税金だ」しごく真っ当な反応に、う、となる。

「子を生み育てることに対して、不安もある」ということも話したけれど、「なんだそりゃ?」という反応で、まったく伝えられなかった。だってこの話をしているすぐ隣の席では赤ちゃんが元気に泣き喚き、2才くらいの男の子がしょっちゅう私たちの席に遊びに来ていたのだ。ごくごく当たり前のことのように目を細めて他人の子を眺めるマディに、「子連れで電車に乗ることへの不安」なんて伝わらなかった。きっと、伝える必要もなかったと思う。


数年以内に、旅行代理店のビジネスをやりたいんだ。黒い目をきらりとさせて彼は言う。インドはいいところだ。だけど電車の切符は取りづらいし、旅行者にはちとハードだ(思わず素直に「そうだね」と反応してしまった)。

「インドは広い。人によってニーズは全然ちがう。食べ物の好みもちがう。俺だったら、もっと、その人にぴったりの旅を提案できる」

現状として、インドの代理店は悪質なところも多く、ぼったくりの噂は絶えない。マディのような人が良心的な代理店を開いてくれたら、喜ぶ旅行者はたくさんいるだろう。


・・・


もうすぐ電車は駅に着く。アプリの現在地は、やっぱり遅れたままだった。

数時間前はあんなにおっかなかったマディが、今ではなんだか面倒見のよい兄のように思えていた。


なんのアナウンスもなく電車が止まる。前触れもなく止まるから、みんな急いで降り始める。慌てて私もあとを追った。


「席に何も忘れてないか、確認したか?」マディが心配そうに尋ねる。
あ、急いで出てきたから振り返るの忘れてた・・・!あたふたしていると、マディがあっという間に車内に戻り、席を見てきてくれた。「何も忘れてなかった。ティケ(OK)!」


ジョードプルの駅前は、インド最大のお祭りであるディワリに向けてビカビカとライトアップしてあった。

インドでは、駅前で客引きをしている運転手が悪質である確率がかなり高い。法外な値段をふっかけられたり、頼んだのと違うホテルへ連れて行ったりという話をとにかくよく聞く。ふだんはいつも気を引きしめて交渉するのだけど、今回はあれよあれよと言う間にマディがトゥクトゥクドライバーと話をつけてくれた。私ひとりのときは水を得た魚のように群がってくるドライバーたちも、マディが隣にいるとずいぶんと大人しかった。

「いいかい、今交渉した値段だけを払うんだよ。」念を押され、こくこくうなずく。

短いけれどギュッと力強い握手をして、私ひとりがトゥクトゥクに乗り込んだ。短気なドライバーは、すぐにエンジンをふかす。ダンニャワード(ありがとう)と、まわりの喧騒に負けないように大きな声でもう一度叫んだ。


”姿くらまし” のようにあっという間に、マディの大きな体は夜の向こうに見えなくなった。


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