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かわいいと言った君が愛しい【後篇】

 今思い出しても、心の芯が熱くなる。

 夫の買い物に付き合ってショッピングモールに足を運んだ時のことだ。オニツカタイガーの公式ショップで靴を見ていた。彼は以前、私が履いていたオニツカの靴を見て「いいなぁそれ」と言っていたので、機会があれば購入を考えていたのだと思う。私もオニツカは大好きなので、彼に似合う靴があるといいと思った。

 壁面にディスプレイされたシューズはどれもカラフルで、使い込まれる前のランドセルみたいにピカピカしていて初々しかった。夫はその中の、スポットライトの光を一際強く跳ね返す山吹色の靴を手に取って、様々な角度にグルングルン回しながら観察していた。本革なので、履き込んで汚れでくすんでもそれがまた味になりそうな良い靴だったし、丁度別の店で黄色いアロハシャツを購入したばかりだった。これを運命とせずなんとする。一日で黄色いアイテムを二つも揃える人間を私は他に知らない。ぜひトータルコーデでお出かけしたい!

 彼は店員さんに試着の旨を伝え、両足履いてちょこちょことその辺りを歩いた。ひまわりのようにおおらかな彼にとても良く似合っていた。本人も気に入ったようですぐにお会計をしにレジへ向かい、その間私は壁面のディスプレイを見ながら時間をつぶしていると、ある一足の靴が目に入った。それはふっくらしたフォルムが愛らしいトラが所狭しと散りばめられた、白いスニーカーだった。

 オニツカの「タイガー」には、創業者の鬼塚氏が本格的に競技用シューズの開発を始める際、力強さの象徴たる虎のような、スポーツにふさわしい靴を生産したいとの思いが込められているそうだ。だがそこに描かれているトラは力強さとは程遠く、ぽてっと腰を下ろしてこちらを見つめるお上品でつぶらなお目目に私のハートは完全にズッキューンと射抜かれた。少し短めな四肢を横たえて寝そべる姿は家猫と完全一致な無防備さである。
 一番気に入ったのは、両足のインソールに左右対称に描かれたお座りポーズのトラたちだ。私は小槌と巻物を加えるお稲荷さん、阿吽の狛犬と、寺社仏閣の入り口を守る二対のイヌ科の像が大好物であるが、この日めでたくネコ科も加わることとなった。
 (余談ではあるが、沖縄のシーサーは明らかに中国の空想上の生き物「獅子」からインスピレーションを受けたものだが、あれはネコ科にカウントされるのだろうか。伝説の生き物なのでよくわからない。)

 その日は一度に二足も買うと荷物が増えて持ち帰るのが大変ということで、私の恋焦がれるトラちゃんシューズは後日ネットショッピングで購入することにした。

 私たち夫婦は様々な事情で一時的に別々に暮らしており、夫は自分の家へ、私は実家へ帰宅後、オンラインショップで注文した。

 実家は母と妹と私の三人暮らしである。この母というのが厄介で、私が服を新調してきてはイラン事を二言三言放つデリカシーのなさである。一緒に出掛けようというので着替えていると「そんな服着られたら一緒に歩きたくなァい」とクネクネ言い放って出掛ける意欲をマイナス100まで一気にそぎ落とすのでタチの悪いことこの上ない。

 せっかくのワタシノタイガーお迎え日にモヤモヤしたくない私は、注文した翌日すぐに家に届いたタイガーを母に見つかる前に自室へしまったのだが、家の掃除をしている母にいとも簡単に見つかってしまったのである!
 勝手に部屋に入られる件についてはノーコメントで。察してほしい。
 「なぁにこの靴!」と私の部屋から叫ぶ母の声が聞こえる。しまった、と天を仰ぐ私。
 「可愛いでしょ~オニツカタイガーの靴買ったんだ~」と、今犯したばかりの失敗を一ミリも悟られないように取り繕いながら言うと
 「…ふ~ん、かわいいね」と珍しく母が正解をはじき出したかと期待したその瞬間、
 「でもこれはアンタにしか履けないね~」と安定の不快ワードをフリップに書いて回答ボタンを押し、華々しく退場したのであった。

 はは…と笑顔を貼りつける私。はい、5億モヤっといただきました。だから嫌だったんだよォォ!

 もう母に見つかってしまって靴を隠す必要はなくなったので、開き直って思う存分写真撮影会をすることにした。どのアングルから見ても世界一可愛いらしく見える親バカぶりで、このカワユサに魅入られるのは絶対に私だけではないと、先刻の母の発言に再び憤りを感じたり、シャッターを切ることで再び怒りを鎮めたりと忙しかった。

 写真を撮ったもう一つの理由は夫にお礼を伝えたかったからだ。夫からすれば一枚写真があれば十分だったと思われるが、上から横から、側面にプリントされた様々なアングルと、お気に入りのインソールもばっちり収めた写真を送りつけ「買ってくれてありがとう」の一言を添えた。

 夫は仕事中のはずだったので、たまたま手隙のタイミングだったのかすぐに返信が来たのには驚いた。夫からの返事はこうだ。

「おすわりしてるのかわいい」

 私は衝撃のあまり言葉を失ってしばし画面を凝視しながら、彼の素晴らしい達眼に感服し、思わず息を漏らした。彼はどこかで私のことを見ているのだろうか。それとも、彼には私が欲しいと思っている言葉がわかるのだろうか。そうだったらいいな。嬉しさが地下水のように、ゆっくりと砂を巻き上げながら湧き出てくる。

 なんて愛おしいんだ。
 私の夫はきっと、たくさんの人を幸せにできる人だ。

 母に言われた言葉など、私の中でとうに居場所を失って消え失せていた。


 その靴を履いていると彼の言葉と気配を思い出して、心がウキウキと活力を帯びていく。
 それからというもの私は、この靴について誰かに何か聞かれたら

 「おすわりしてるのかわいいでしょ」

 と笑顔で言うようにしている。

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