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【番外編】教科書だけで解く南山大日本史 2021.2.13 【簡易版】

教科書だけで解く早大日本史シリーズの【番外編】として、2021年2月13日実施の南山大日本史を分析します。

【番外編】の大学をどこにしようか思案していたのですが、中部地区トップの伝統私大である南山大学にしました。外国語学部が昔から看板学部ですが、人文・経済・経営・法・総合政策・理工などを備える総合大学です。

入試方式は全学統一入試と一般入試などがあります。今回は一般入試の2月13日実施(外国語学部・英米、総合政策学部・総合政策)を取り上げます。

なお、【簡易版】とし、本編ほど詳細な解説はおこないませんので、宜しくお願いいします。

※問題は資料請求できます。

※解答はこちらを参考にしました。

2月13日入試は、選択式問題が29問、語句記述問題が12問、50字程度の論述問題が1問の合計42問でした。全学統一入試はすべて選択式ですが、それ以外の入試はほぼこの形式となっています。


A(一)○○◎◎○○◎

〇(1)空欄Aには㋓の朝堂院が入ります。建物群とあるので㋒の大極殿は入りません。45頁の資料「平城宮図」で確認できますが、46頁では「政務や儀礼の場である大極殿・朝堂院」と記述されているのみなので、それぞれの役割については「用語集」で確認が大切です。ただ、正解にたどり着くことはできます。

〇(2)空欄Bに入るのに誤っているものは、㋑の官田です。空欄Bには律令制下の官人の給与が入りますが、官田は879(元慶3)年に畿内に設けられた、「有力農民を利用した直営方式」の田地のことです。この官田を元慶官田といいます(63頁)。官吏の給与については、42頁①に「位封・職封などの封戸、位田・職田などの田地、年2回与えられる現物給与の季禄」が書かれており、㋐㋒㋓はいずれも正しい。

◎(3)官人の特権として誤っている文は㋒の「六位以上の者は貴族とされ、とくに手厚く優遇された。」です。42頁では「とくに五位以上の貴族は手厚く優遇され」とあり、「六位以上」ではありません。蔭位の制も五位以上の子(蔭子)、三位以上の孫(蔭孫)が対象です。㋐㋓は42頁に、㋑は42頁②に書かれています。

◎(4)二官八省について正しいものは、㋑の「重要な政務は、太政官の公卿によって審議された」です。「行政の運営は、有力諸氏から任命された太政大臣・左大臣・右大臣・大納言などの太政官の公卿による合議によって進められ」(41頁)ました。㋐は「仏事」が誤りで、仏事を担当したのは神祇官ではなく治部省。㋒の大蔵省は荘園認可とは無関係。㋓の五衛府は兵部省の下の組織ではありません。

〇(5)正誤判定の組み合わせ問題です。X、Yともに正しい文なので㋐が正解です。42頁の律令官制表でわかります。四等官制は「かみ・すけ・じょう・さかん」であり、省・大宰府・国・郡で充てられた漢字が異なりました。各省では「卿・輔・丞・録」で、「かみ」以外はさらに大小に分かれています。

〇(6)新設された官職は令外官と呼ばれました。誤っている文は㋒です。各省を管轄した弁官は左弁官、右弁官に分かれており8世紀末に分かれたものではありません。42頁の律令官制表に記載されています。一方で㋑の中納言や㋓の検非違使は記載されていないことからもわかるようにこれらは令外官です。代表的なものとして他に、参議、勘解由使、蔵人頭、問民苦使、征夷大将軍、摂政、関白などが挙げられます。

◎(7)空欄C、空欄Dに入る語句の組み合わせです。光明子と結んで政権を掌握し、紫微中台を置いたのは藤原仲麻呂、道鏡政権で置かれたのは法王宮職です。仲麻呂の紫微中台、道鏡の法王宮職ともに教科書に記載されていませんが、選択問題のため、長屋王と東宮がともに誤りだと判定できれば大丈夫です。光明子と仲麻呂が結んだことは50頁に、道鏡は法王となったことは51頁ありますので、正解にたどり着くことができます。

(ニ)◎◎○◎◎○○

◎(8)空欄A、空欄Bに入る組み合わせは、平将門を討った平貞盛、藤原純友の乱を制圧した源経基の㋑です。Aには藤原秀郷も入るのですが、㋒はBに平貞盛があるため不適切です。82-83頁に書かれています。

◎(9)平氏政権について正しい文は㋒の「清盛は、鹿ケ谷の陰謀事件後、後白河法皇を幽閉した。」です。1177(治承元)年、藤原成親や俊寛らが平氏打倒の陰謀をはかりますが、失敗し、「清盛は、1179(治承3)年、後白河法を鳥羽殿に幽閉し、関白以下多数の貴族を処罰し、感触を奪うという強圧的手段で国家機構をほとんど手中におさめ」(93頁)ました。㋐は「関白」でなく「太政大臣」、㋑は「安徳天皇の中宮」でなく「高倉天皇の中宮」、㋓は「数年」でなく「半年」(福原遷都から京都再遷都)。

○(10)鎌倉幕府についての年代整序です。96頁本文の記述と掲載されている源平の争乱の年表でわかりますが、レベル的には中学教科書レベルです。正解は㋒で、Ⅱ侍所設置(1180)→Ⅰ守護・地頭設置(1185)→Ⅲ征夷大将軍(1192)です。

◎(11)北条氏に関わる文章の正誤判定です。Xは「連署には北条氏以外の有力御家人」「評定衆は北条氏一族で独占」とあり、ともに誤りです。「泰時は執権を補佐する連署をおいて北条氏一族中の有力者をこれに当て、ついで有力な御家人や政務にすぐれた11名を評定衆に選んで」(102頁)合議制を行いました。Yも誤りです。霜月騒動で滅ぼされたのは北条市外戚の安達泰盛で、それを討ったのが「内管領の平頼綱」です。平頼綱が滅ぼされたのは平禅門の乱です(109頁)。ともに誤りの㋓でした。

◎(12)足利尊氏が建武政権に反旗を翻すきっかけとなった空欄Cに入るのは、㋓の中先代の乱です。「1335(建武2)年、北条高時の子時行が反乱をおこして鎌倉を占領した中先代の乱を機に、その討伐のために関東にくだり、新政権に反旗をひるがえし」(122頁)ました。㋑㋒は後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕計画、㋐の観応の擾乱は尊氏と直義の争いです。

○(13)室町時代の強化された守護の権限について誤っている文は㋑の「自ら裁判をおこない、その判決を強制執行する使節遵行をおこなった。」です。前半部分が誤りで、使節遵行権は「幕府の裁判の判決を強制執行する権限」(123頁①)です。

○(14)朝廷が義満に与えようとした称号( D )は㋒の太政天皇(法皇)です。太政天皇(上皇)は天皇を退位したものに与えられる称号で、法皇は出家した上皇のことです。義満の妻は天皇の准母(名目上の母)となっており、「義満の死後、朝廷は義満に天皇の名目上の父として太政法皇の称号をおくろうとしたが、4代将軍義持はこれを辞退」(125頁④)しました。


(三)◎◎△△◎◎○

◎(15)伊予国の宇和島藩主であった( A )氏は㋒の「伊達」氏です。宇和島藩主の伊達氏は伊達政宗で有名な仙台藩伊達氏の分家です。8代藩主の「伊達宗城」(243頁)は藩政改革を行い、明治維新後も日清修好条規に調印するなどしています。

◎(16)新田開発による耕地面積の増加は「江戸時代初めの164万町歩から、18世紀初めには297万町歩へと激増」(203頁)します。しかし、㋓の「約6倍」は増えすぎです。約1.8倍といったところです。2倍弱ですね。

△(17)正誤の組み合わせです。Yは正しい文です。江戸時代には漁法の改良と、沿岸部の漁場の開発が進み、「鰯や鰊は干鰯・〆粕などに加工され、綿作などの商品作物生産に欠かせない肥料として上方をはじめ各地に出荷され」(205頁)ました。Xも正しい文です。鰯漁が盛んだった場所に九十九里浜があります。いまでも修学旅行生が地引網の体験などをすることで有名です。ただ、九十九里の鰯漁については「教科書」に記載されていません。「用語集」には見られます。

△(18)1691年に開坑された伊予国の( B )銅山は、㋓の別子銅山です。別子銅山は、194頁①で「おもな鉱山としては、…足尾銅山・別子銅山・阿仁銅山なども知られている。」とあるのみで、伊予国であることは「教科書」にありません。のちに住友財閥の中核となることも含めて「用語集」で確認しておくと良いでしょう。鉱山町については、相澤理先生の『東大のディープな日本史』でも取り上げられています。

◎(19)全国の特産品についての文で正しいのは、㋓の「熊野や下総では、高級な炭が作られた。」です。「熊野や伊豆・下総などでは高級な炭がつくられ、幕府や大名への貢納品や、三都や城下町向けの商品として販売され」(204頁)ました。㋐の杉原紙は播磨、㋑の越後縮や奈良晒は綿でなく麻、㋒の紅花は阿波でなく出羽。

◎(20)空欄Cと空欄Dの組み合わせ問題です。村田清風が( C )藩で実施した( D )の専売制なので、㋓の長州藩で蠟の専売です。「萩(長州)藩では、村田清風が多額の借財を整理し、紙・蠟の専売制を改革」(243頁)しました。長州藩では越荷方による収益の方が頻出ですので、蠟の専売は難しいですが、対抗する選択肢が黒砂糖なので簡単にオミットできます。

○(21)佐藤信淵の著作は㋑の『経済要録』です。「教科書」では245頁に『農政本論』も挙げられています。㋐『稽古談』は海保青陵、㋒『経世秘策』は本多利明、㋓『新論』は会沢安(正志斎)です。

(四)◎◎◎○◎◎◎◎

◎(22)空欄Aには征韓派の人物が入ります。選択肢中では㋐板垣退助のみが適切です。征韓派は「留守政府の首脳の西郷隆盛・板垣退助ら」(273頁)でした。

◎(23)空欄Bには1875年に起きた出来事が入ります。㋐の江華島事件です。「1875(明治8)年の江華島事件を機に日本は朝鮮にせまって、翌1876(明治9)年、日朝修好条規(江華条約)を結び、朝鮮を開国させ」(274頁)ます。㋓壬午軍乱は1882年、㋒甲申事変は1884年、㋑甲午農民戦争は1894年です。

◎(24)空欄Cには大井憲太郎らが朝鮮でのクーデター計画し、事前に逮捕された㋐の大阪事件が入ります。各地で起きた自由党員の絡んだ騒擾事件で1884年の加波山事件の後、自由党は解党します。「翌1885(明治18)年には旧自由党左派の大井憲太郎らが、朝鮮に渡ってその保守的政府を武力で打倒しようと企て、事前に大阪で検挙される事件がおこ」(281頁)りました。群馬事件、加波山事件、名古屋事件はいずれも1884(明治17)年です。

○(25)福沢諭吉が「脱亜論」を掲載した( D )は㋑の『時事新報』です。289頁資料にある通り、1885(明治18)年3月16日付の『時事新報』社説に掲載されました。㋐の国民新聞は徳富蘇峰、、㋓の万朝報は黒岩涙香で日露戦争の主戦論(293頁②)。㋒の日真新事誌は民撰議院設立建白書が掲載されたイギリス人ブラックによるもの(275頁)。

◎(26)琉球処分について誤っているのは㋓の「沖縄県設置に対して清国が強く抗議したため、政府は清国領の台湾に出兵した。」台湾出兵は1871年の台湾で琉球漂流民殺害事件が発生したことに端を発し、1874年に西郷従道らが台湾に出兵したもので、沖縄県設置(1879年)よりも前(273頁)。

◎(27)台湾統治に関しての正誤判定組み合わせ。Xは正しい文で、「1895(明治28)年、海軍軍令部長の樺山資紀を台湾総督に任命し」(291頁)ています。Yは「東洋拓殖会社」が誤り。東洋拓殖会社が設立されたのは台湾でなく朝鮮(297頁)。㋑が正解。

◎(28)朝鮮支配に関する年代整序です。Ⅱの外交権接収と統監府設置は第2次日韓協約で1905年、Ⅰの皇帝退位と韓国軍の解散は第3次日韓協約の1907年、Ⅲの朝鮮総督府の設置は日韓併合条約後の1910年です(296頁)。㋒のⅡ→Ⅰ→Ⅲが正解です。

◎(29)1919年に朝鮮全土で展開された独立を求める大衆運動=三・一独立運動は「おおむね平和的・非暴力的なものであったが、朝鮮総督府は警察・憲兵・軍隊を動員してきびしく弾圧」(327頁)しました。㋒が正解です。㋐は文章として誤りはありませんが、韓国併合前の1909年の出来事です。㋑の「朝鮮には徴兵制が施行され」が誤りです。朝鮮で徴兵制が施行されたのは1943年です。㋓は「寺内正毅」ではなく「斎藤実」。


B(一)◎◎○◎◎

◎(1)薬師寺の( A )神像や神功皇后像、東大寺の( A )神像が例として挙げられている( A )に入るのは、「僧形八幡」(4字指定)です。「教科書」では、「神仏習合を反映してさかんになった神像彫刻としては、薬師寺の僧形八幡神像や神功皇后像などがある」(66頁)と紹介されています。

◎(2)幾度もの渡航の苦難を乗り越えて来日した高僧は「鑑真」でよいでしょう。唐招提寺に残る乾漆像からも確定できます。「教科書」57頁にあるのはもちろん、鑑真は小学生レベルです。

○(3)空也が「( C )」と唱える様子を可視化したのが空也上人立像です。( C )に入るのは「南無阿弥陀仏」(6字指定)です。「口に「南無阿弥陀仏」ととなえると、その1音1音が阿弥陀仏になったという伝説を彫刻化して」(74頁 写真資料解説)います。

◎(4)平家一門が装飾経を奉納した( D )に入るのは、「厳島神社」(4字指定)です。「平氏に信仰された安芸の厳島神社には、豪華な『平家納経』が寄せられており、平氏の栄華と貴族性を物語って」(94頁)います。厳島神社は平家一門の氏神でした。

◎(5)室町幕府8代将軍の妻( E )は「日野富子」(4字指定)です。管領家の後継争いに端を発した応仁の乱では、「8代将軍足利義政の弟義視と、子の足利義尚を推す義政の妻日野富子のあいだに家督争いがおこ」(134頁)りました。なお、義視の妻は富子の妹です。義尚の次の将軍は義視の子義材(よしき)となりましたが、富子と対立し、のちの明応の政変へつながります。


(ニ)◎○◎◎◎

◎(6)特高によって殺害された『蟹工船』の著者( A )は「小林多喜二」です(338頁)。

○(7)1933年に起こった京都帝国大学法学部教授の休職をめぐる事件の名称は「滝川事件」です。「1933(昭和8)年、自由主義的刑法学説をとなえていた滝川幸辰京都帝国大学教授が鳩山一郎文相の圧力で休職処分を受けたのに対し、京都帝国大学法学部教授会は全員辞表を提出して抵抗したが、結局敗北した(滝川事件)」(349頁④)。滝川は戦後、京大総長に就任します。免官になった教授には、のち立命館大学学長の佐々木惣一、のち立命館大学総長の末川博らがいます。

◎(8)共産主義から思想変更することを「転向」といいます。「転向という言葉は、一般に個人の思想的立場の変化を指すが、この時期はとくに国家権力が加える暴力・圧迫による社会主義・共産主義思想の放棄を意味し」(349頁①)ました。1933(昭和8)年、日本共産党幹部だった佐野学・鍋山貞近らは天皇制打倒の方針から「転向」しました。この年、幹部の転向とともに、最後の中央委員であった宮本顕治が逮捕され、日本共産党は壊滅状態に追い込まれました。

◎(9)陸軍内で直接行動による国家改造をめざした( B )派は「皇道」(2字指定)派です。二・二六事件前、陸軍内では「隊付の青年将校を中心に、直接行動による規制支配層の打倒、天皇親政の実現をめざす皇道派と、陸軍省や参謀本部の中堅幕領将校を中心に、革新官僚や財閥と結んだ軍部の強力な統制のもとで総力戦体制樹立をめざす統制派が対立して」(350頁)いました。皇道派は相沢事件、二・二六事件などをへて排除され、陸軍では統制派が主導権を確立しました。

◎(10)日本軍の実態を描いて発禁処分となった石川達三『( C )』は、『生きてゐる兵隊』です(358頁)。


(三)◎◎◎

◎(11)徳川家光の将軍就任後も秀忠は( A )として実権を握りました。空欄Aに入るのは「大御所」(3字指定)です。秀忠は父家康と同様に将軍を譲った後も「大御所として幕府権力の基礎固めをおこな」(171頁)いました。「大御所政治」をおこなった将軍は、家康、秀忠、吉宗、家斉の4人です。

◎(12)1635年に家光が新たな( D )を定めて参勤交代を義務化しました。空欄Dには「武家諸法度」が入ります(171頁)。解答例では「寛永令」も挙げられていますが、「新たな( D )」とあるので「武家諸法度」の方が良いでしょう。

◎(13)50字(程度)の論述問題です。( B )には「石高」、( C )には「普請」が入ります。大名が将軍の家臣としてどのような役を負っていたのかについて、戦時と平時それぞれの役を「石高」「普請」を用いて論述します。

大名は石高に応じて一定数の兵馬を常備し、戦時には将軍の命令で出陣し、平時には江戸城などの修築や河川の工事などの普請役を負担した。(171頁)

ほぼ「教科書」の記述通りにまとめればよいでしょう。

(解答例)
大名は石高に応じて兵馬を常備し、戦時には軍役を負い、平時には城の修築や河川の工事などの普請役を負った。(51字)


まとめ ◎29○11△2

以上で、全42問の分析が終了しました。
結果は、◎29○11△2となりました。

「教科書」本文だけで正解できる割合が、29/42(69%)
「教科書」本文+脚注・資料での割合が、40/42(95%)

でした。

△の問題は伊予国の別子銅山、鰯漁の九十九里など「教科書」で漏れてしまったものでした。○のなかには、省の「かみ・すけ・じょう・さかん」の漢字を問う問題など細かいものもありました。

いつものことですが、本文だけで解ける◎が簡単で、用語集にもない×が超難問という単純な構図にはなっていません。

この「95%」をどうとらえるかはそれぞれですが、早稲田大以上に「教科書」(山川)への依存度が高いことは示されたでしょう。

他の日の問題については、やれたらやります。

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