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教科書だけで解く早大日本史1-6 社会科学部2020

 社会科学部の魅力は何といっても様々な分野の学問を幅広く学べることです。社会科学分野の政治学、経済学、法学はもちろんのこと、人文科学系の学問も学ぶことができます。現・学部長の劉傑先生の中国研究、笠羽先生の芸術論、島先生の歴史学、大森先生のジェンダー論など社会科学系の学部でありながら人文科学の要素を習得できる魅力がありました。もちろん、故・西原先生の憲法、清水先生の法学、田村先生の政治学など教養レベルから専門レベルまで早稲田の名にふさわしい充実ぶりでした。
 1998年の新14号館と昼夜開講制から、これらの魅力が花開き、お荷物とよばれた社学は早稲田でも最難関の学部へと昇華していきます。

 では、前回に続いて大問Ⅲの問6から見ていきましょう。

 問題は河合塾速報からどうぞ

〇問6 1641年~1642年の飢饉に対する施策として、不適切なもの2つ

イ 百姓の夫役を制限させた。
ロ 元文金銀を発行した。
ハ 菜種の栽培を制限した。
ニ 分地制限令を出した。
ホ 旧里帰農令を出した。

 1641年~1642年の飢饉は寛永の飢饉です。当時の将軍は「生まれながらの将軍」3代家光でした。

「幕府は百姓の小経営をできるだけ安定させ、一方で貨幣経済にあまり巻き込まれないようにし、年貢・諸役の徴収を確実にしようとした。このため、1643(寛永20)年に田畑永代売買の禁止令、1673(延宝元)年には分割相続による田畑の細分化を防ぐために分地制限令を出した。また、たばこ・木綿・菜種などの商品作物を自由に栽培することを禁じた(田畑勝手作りの禁)。そして、1641~1642(寛永18~19)年の寛永の飢饉のあと村々に出された法令に見られるように、日常の労働や暮らしにまで細ごまと指示を加えている。」

 寛永期の政策で飢饉にかかわる記述はこれだけです。田畑永代売買の禁止令と分地制限令、田畑勝手作りの禁の3つが主な政策です。ニの分地制限令は1673年と4代家綱の時代に出されたものなので、寛永の飢饉に関連してとなるとやや年代が離れているような気もします。ホの菜種の栽培の制限に関しては正文です。

 イの夫役の制限については教科書(山川)には見当たりません。用語集(山川)でも確認できず、×問題のように思えます。

 ロの元文金銀は8代将軍吉宗が米価を高騰させるために良質な金を多く含む正徳小判、享保小判から金の含有量を減らした元文小判を発行した時のものです。時代が違います。しかし、教科書本文に記述はなく、「金貨成分比の推移」というグラフに名前が出てくるのみで、詳しい内容は用語集によらねばなりません。

 ホの旧里帰農令は寛政の改革で出された法令で大問Ⅰの問9で見たとおりです。これも時代が違います。

 したがって、ロとホが不適切、イは正文ということになります。

 イの百姓の夫役の制限は正誤判定できず、ロの元文金銀は実質的に用語集のみ、分地制限令はやや年代が離れるということで、判定の難しい問題となりました。教科書掲載資料に「1736 元文小判」として載っているだけですが、元号と年代の判定は可能です。難問ですが〇判定です。

〇問7 宝永の富士山噴火に関連して、適切なもの2つ

イ 駿河・相模などの国々に降砂による大被害をもたらした。
ロ 江戸や大坂など各地の都市で激しい打ちこわしが発生した。
ハ 全国で数多くの百姓一揆が起こった。
ニ 約49万両の国役金が幕府に上納された。
ホ 金の含有率を引き下げた正徳小判が発行された。

 宝永大噴火は5代将軍綱吉の治世末期の出来事でした。

「1707(宝永4)年には富士山が大噴火し、駿河・相模などの国々に降砂による大被害をもたらした①。」(本文)
①「幕府は噴火被災地を復興するため、全国に「諸国高役(国役)金」を高100石について2両の割合で徴収することを命じた。その結果、約49万両の国役金が幕府に上納された。」(脚注) (太字は筆者による)

 イとニが正文ということになります。ニは脚注に書かれており、細かい数字まで目を通しておくことは難しいでしょう。

 それ以外の選択肢は時代が違います。ロの打ちこわし、ハの百姓一揆はともに享保期以降です。ホの正徳小判は新井白石の政策です。誤文からの推定が容易なため、正解するのはそれほど困難ではありません。〇評価。

〇問8 17世紀のある史料に「改元は、漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし」と記されている、これと同一の史料に含まれていないもの2つ

イ 「武家の官位は、公家当官の外為るべき事」
ロ 「五百石以上の船停止の事」
ハ 「天子諸芸能の事、第一学問也」
ニ 「紫衣の寺、住持職、先規希有の事也」
ホ 「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」

 イ・ハ・ニが禁中並公家諸法度ロ・ホが武家諸法度(ホが元和令、ロが寛永令)です。教科書に記載されている資料で条文が確認できますし、いずれも頻出項目です。問題文の条文がどちらに入るかは教科書からは分かりませんが、イ~ホをこのように分類できることから同一の史料に含まれていないのは武家諸法度の2つ、つまりロとホです。改元は朝廷にかかわることですから禁中並公家諸法度という想定も容易でしょう

 レベル的には◎なのですが、教科書掲載資料が根拠ですから〇評価です。

※武家諸法度は元和令、寛永令、天和令が頻出です。幕府の全国統治体制の確立のための武断主義的な政治から、支配体制がある程度確立され、治安を優先に考える文治主義的な政治への変化を押さえておく必要があります。また、これらの出典は享保期に編纂が開始された『御触書寛保集成』です。幕府法令はこちらか『大日本史料』によることが多いため、出典まで確認するのを怠らないようにしましょう。禁中並公家諸法度は『大日本史料』からです。

〇問9 関東大震災に関して、不適切1つ

イ 陸軍被服廠跡に避難した被災者約4万人が焼死した。
ロ 約57万戸の家屋が、全壊・流失・全焼した。
ハ 被害総額は60億円をこえた。
ニ 亀戸警察署内で社会主義者10名が警官に殺害された。
ホ 大杉栄、その内縁の妻、大杉の甥が憲兵に殺害された。

 すべて「関東大震災の混乱」という囲みコラム内にある内容で正誤判定が可能です。長い引用になりますが、確認してみましょう。

「1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源としてマグニチュード7.9の大地震が発生し、中央気象台の地震計はすべて吹きとばされた。地震と火災で東京市・横浜市の大部分が廃墟と化したほか、東京両国の陸軍被服廠跡の空き地に避難した罹災者約4万人が猛火で焼死したのをはじめ、死者・行方不明者は10万人以上を数えた。全壊・流失・全焼家屋は57万戸にのぼり被害総額は60億円をこえた
 関東大震災後におきた朝鮮人・中国人に対する殺傷事件は、自然災害が人為的な殺傷行為を大規模に誘発した例として日本の災害史上、他に類を見ないものであった。流言により、多くの朝鮮人が殺傷された背景としては、日本の植民地支配に対する抵抗運動への恐怖心と、民族的な差別意識があったとみられる。9月4日夜、亀戸警察署内で警備に当たっていた軍隊によって社会主義者10人が殺害され、16日には憲兵により大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥が殺害された。市民・警察・軍がともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使したことがわかる。」

 細かい数字に加え、誤文の不適切個所は「警察」でなく「軍隊」というよほど亀戸事件に関心がなければ見落としてしまいそうな問題です。

 とはいえ、囲みコラムに記載されていますので〇評価となります。

※おそらく世間ではこういう細かい正誤判定問題をとりあげて「意味のない駄問」「無駄に難しすぎる」「こんなことまで覚えてなんになる」と批判されるのでしょう。しかし、考えてみてください。教科書に明確に描かれている記載の範囲の中での出題です。むしろ、「この部分に注目してほしい」「こういう点に関心を持てる学生に入学してほしい」という早稲田大学の強い思いを感じます。亀戸事件で殺害された川合義虎は震災の火事の中、行き場をなくした赤子を救出して背負いながら被災者支援をしているところを連行されて虐殺されました。甘粕事件では何の罪もない6歳の大杉の甥まで殺害されました。早稲田大学はこういう震災下の出来事に関心を持てる学生を欲しているのだと思います。
 かつて私が受験生だった20数年前、教育学部で沖縄テーマ史が出題され、「屋良朝苗」を書かせる問題が出ました。世間ではやれ「難しすぎる」だの「悪問」だのと叩かれましたが、その時にも「早稲田大学は屋良朝苗を知っている=それだけ沖縄のことに想いを馳せることができる学生を欲しているのだな」と感じたのを思い出しました。

△問10 関東大震災への政策的対応について、震災後に実施されたこととして不適切なもの2つ

イ 戒厳令が出された。
ロ 同潤会が設立された。
ハ 借家法が制定された。
ニ 市街地建築物法が制定された。
ホ 治安維持法が制定された。

 ホの治安維持法1925年であるのは中学生レベル。
 同潤会1924年に関東大震災の罹災地区に住宅を供給するためにつくられた公益団体で、木造住宅のほか、当時最新の鉄筋コンクリート造の4~5階建てのアパート(同潤会アパート)を東京や横浜に建設しました。教科書では、

「関東大震災の翌年の1924(大正13)年に設立された同潤会は、東京・横浜に木造住宅のほか4~5階建てのアパートを建設した。」

とあります。

 教科書で判定できるのはここまでです。不適切が2つの問題なので、残るイ・ハ・ニのうち2つが不適切、1つが適切ということになります。

 イの戒厳令ですが、教科書では二・二六事件後に首都に発せられたことしかふれられていません。大日本帝国憲法第14条で「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」とあり、用語集(山川)では戒厳令が出された例として、「日比谷焼き討ち事件」「関東大震災」「二・二六事件」があげられています。

 ハの借家法は借地法とともに1921年に制定されました。ニの市街地建築物法1919年に公布されていますが、同年の都市計画法も大切な法律です。震災復興に基づいて作られた法なのか、それ以前からあった法なのかが焦点となりました。関東大震災は大正末期、文化住宅の流行やサラリーマンの出現、地下鉄の登場、デパートの登場など大正期の文化を広く理解していれば、問われた法はすでにあったと考えることもできるでしょう。

 不適切なものは、ハとニでした。イも含め用語集を使いましたので△評価です。

 大問Ⅲが終了しました。◎4〇5△1という結果でした。

 次回、大問Ⅳは資料問題です。戦中の史料を使った鉱産資源に関するテーマ史という興味深い問題です。

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