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教科書だけで解く早大日本史 2021社会科学部 8

新14号館(A棟)が稼働してそろそろ四半世紀になります。8号館や3号館、11号館も続々と新しくなり本キャンの様相もかなりかわりましたね。なお、16号館は…

さて、Ⅱの残り2問です。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

◎問8 安土桃山時代以前の芸能に関して 不適切2つ

イ 日吉神社に奉仕した猿楽の四つの座は大和猿楽四座とよばれた。
ロ 小歌の歌集として『閑吟集』がつくられた。
ハ 観阿弥は宝生座に属した。
ニ 平安時代、猿楽は御霊会でも演じられた。
ホ 世阿弥は『風姿花伝』を著した。

この問題も選択肢ごとに時代がバラバラなので、年代順に並び変えてみていくことにします。

まず、の平安時代の猿楽です。これは正しい文です。

平安時代末期の院政期には後白河法皇が自ら流行歌謡の今様を学んで『梁塵秘抄』を編むなど、貴族と庶民の文化が融合した時代でした。今様のほかにも、古代の歌謡から発達した催馬楽さいばらや和漢の名句を吟じる朗詠も流行しました(※藤原公任の『和漢朗詠集』は摂関期でやや前)。

田楽猿楽などの芸能も、庶民のみならず、貴族のあいだにもおおいに流行し、祇園祭などの御霊会や大寺院の法会などで演じられた。(93頁)

残りは室町文化です。

北山文化を代表する芸能であるは猿楽や田楽のなかから歌舞・演劇の形をとるものとして発達していき、寺社の保護を受けて能を演じる集団(座)が登場しました。

なかでも興福寺を本所とした金春・金剛・観世・宝生座の四座を大和猿楽四座といい、観世座にでた観阿弥世阿弥父子は、将軍義満の保護を受け、洗練された芸の美を追求して、芸術性の高い猿楽能を完成した。(142頁)

引用部分から、不適切な選択肢はだとわかります。

イは「日吉神社」でなく「興福寺」です。「日吉神社」は近江国坂本で比叡山延暦寺の僧がここの神輿をかついで強訴しました。「大和」ではありません。「春日大社」なら正解でした。

ハは「宝生座」でなく「観世座」です。観阿弥・世阿弥ですからわかりやすいですね。

の小歌の歌集『閑吟集』は正しい文です。小歌は民間の流行歌です。

 庶民に愛された芸能として、このほか(※茶、連歌、能、狂言など)に幸若舞・古浄瑠璃・小歌などがあり、小歌の歌集として『閑吟集』が編集された。(145頁)※は引用者による

の世阿弥と『風姿花伝』も正しい文です。

観阿弥・世阿弥父子は、能の脚本である謡曲を数多く著すとともに、世阿弥は、能の神髄を述べた『風姿花伝』(花伝書)などの理論書も残した。(142頁)


〇問9 江戸時代以降の芸能に関して 不適切2つ

イ 宮地芝居は寺社の境内や門前で楽しまれた。
ロ 河竹黙阿弥の白浪物が人気を集めた。
ハ 江戸時代初期には女歌舞伎や野郎歌舞伎が禁止された。
ニ 常盤津節は唄浄瑠璃の一派である。
ホ 小山内薫・土方与志らの築地小劇場は新派劇の代表である。

時代は飛んで江戸時代以降です。イ~ニは江戸時代、ホだけが明治・大正期になります。

こちらも年代順にしてみていきます。

まずは、江戸初期とあるの歌舞伎です。歌舞伎は17世紀初めに出雲阿国いずものおくにが京都でかぶき踊りを始めて人びとにもたはやされ、この阿国歌舞伎を元に女歌舞伎が生まれます(168頁)。これが江戸幕府に禁止されると、ついで少年が演じる若衆歌舞伎がさかんになり、さらに成人男性による野郎歌舞伎が生まれました(同頁 脚注②)。

② 江戸時代初期に風俗取締りのうえから女歌舞伎、ついで若衆歌舞伎が禁止され、野郎歌舞伎だけがおこなわれた。(213頁 脚注②)

野郎歌舞伎は禁止されず、江戸に荒事で好評を得た初代市川團十郎、上方に和事を得意とする坂田藤十郎、女形の代表とされる芳沢あやめらの名優がでました。

不適切です。

宮地芝居は、歌舞伎の江戸三座(中村・市村・森田)などによる恒常的な大芝居とは別に、寺社の門前や境内で行なわれた小芝居です。「湯島天神境内などで宮地芝居の興業があ」(248頁 コラム「興行」)りました。正しい文ですが「教科書」だけではやや不足です。「用語集」(210頁L)に説明があります。

河竹黙阿弥は歌舞伎作者です。生世話物・白浪物・怪談物をつくり、明治初期には散切物ざんぎりものを書きました。正しい文です。

② 幕末には狂言作者の河竹黙阿弥が活躍し、盗賊を主人公にした白浪物などが評判を呼んだ。(247頁 脚注②)

の|常盤津節《ときわづぶし》は唄浄瑠璃の一派です。正しい文です。浄瑠璃は18世紀前半に武田出雲(2世)が、天明期には近松半二がでますが、寛政期になると歌舞伎の隆盛に圧倒されていきます。

一中節・常盤津節・清元節など、人形操りと離れて座敷でうたわれる唄浄瑠璃(座敷浄瑠璃)へと移っていった。(230頁)

残る不適切な選択肢となります。「新派劇」は「新劇」の誤りです。

川上音二郎らが時事的な劇に民権思想を盛り込んだ壮士芝居は、日清戦争前後から人気がある通俗小説の劇化を加えて、新派劇と呼ばれた。さらに日露戦争後には、坪内逍遥の文芸協会や小山内薫の自由劇場などが、製油緒の近代劇を翻訳・上演し、歌舞伎や新派劇に対して新劇といわれた。(314頁)

『小説神髄』『当世書生気質』で知られる坪内逍遥は『早稲田文学』の創刊者です。早稲田大学のキャンパス内には早稲田坪内博士記念演劇博物館(略称・演博)があります。文芸協会は島村抱月らと設立しました(島村はのちの松井須磨子との恋愛事件後、芸術座を組織)。

そして、大正時代になって新劇運動の中心となったのが築地小劇場です。

 演劇では、1924(大正13)年に小山内薫・土方与志らが創設した築地小劇場が新劇運動の中心となり、知識人のあいだに大きな反響を呼んだ。(338頁)

築地小劇場は小山内薫の死後に直属劇団が分裂し、貸劇場としてプロレタリア演劇運動の拠点となりました。

演劇と早稲田大学には深い関わりがありますので、創設者関連(大隈重信、小野梓ら)だけでなく、こちらも目を向けておきましょう。

ホ以外は脚注かコラムで確認しましたので〇評価です。


これでⅡは終了です。◎5〇4でした。「不適切2つ問題」はなかなか手ごわいです。

次回からⅢに入ります。明治初期から戦後にかかる時期の政治史が中心の出題です。

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