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教科書だけで解く早大日本史 2021教育学部 9

2021教育学部編の第9回です。大問Ⅲの後半4問を見ていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

◎問7 漢訳洋書の輸入緩和以前に、世界の地理や民俗を考察した将軍側近に関する説明

ア キリシタン宣教を目的に屋久島に潜入してきたイタリア人を尋問した。
イ 朝廷財政の削減のため、新しい宮家の増設に反対した
ウ 将軍の対外的呼称を日本国大君から日本国王に変更させた。
エ 金の含有率を高めた小判を鋳造させ、物価を抑えようとした。
オ 将軍就任の慶賀のために派遣された朝鮮通信使の待遇を簡素化した。

選択肢のうち4つが「将軍側近」に関する正しい文章ですから、正徳の政治をおこなった新井白石であることはわかるでしょう(早大受験生で新井白石を押さえておかないのはマズイです)。

新井白石の政治については、教科書201-202頁に詳述されています(一部、225頁脚注①)。

 短命・幼児の将軍が続く中、白石は将軍個人の人格よりも将軍職の地位とその権威を高めるために、閑院宮家①を創設したり、将軍家継と2歳の皇女との婚約をまとめたりして、天皇家との結びつきを強めた。(202頁)
①宮家(親王家)は伏見・桂・有栖川の三家しかなかったので、多くの皇子・皇女は出家して門跡寺院に入寺した。そこで幕府は、費用を献じて特例として閑院宮家を創設した。(202頁 脚注①)

白石は朝廷の権威を高めることで将軍の権威も高めるという手法を取りました。イの文は正反対で誤りです。

他の選択肢については、すべて教科書に記載されています。

◎問8 ( E )の事件に関する説明で正しいもの

ア 蘭学者がフェートン号事件における幕府の対応を批判したために起こった。
イ 逮捕された蘭学者は吟味の結果みなゆるされ、釈放された。
ウ 蘭学者が批判したアメリカ船には日本の漂流民が乗っていた。
エ 国外への持ち出しを禁じられていた日本地図を蘭学者がオランダ人に渡したことが、事件の契機であった。
オ この事件により、オランダ商館の医師が国外追放になった。

まずは空欄( E )を特定しないといけません。

この間、( E )という弾圧事件に象徴されるように、蘭学の発展は幕府の対外政策を批判する人々を生み出した。

問題文から読み取れるのは、「幕府の対外政策を批判する」「蘭学」者の「弾圧事件」です。時期は19世紀ということなので、これは「蛮社の獄」と特定してよいでしょう。

この事件(※1837(天保8)年のアメリカ商戦モリソン号の打払い事件=モリソン号事件のこと 筆者注)について、翌1838(天保9)年、渡辺崋山は『慎機論』を、高野長英は『戊戌夢物語』を書いて、幕府の対外政策を批判した。しかし、翌年、幕府は彼らを厳しく処罰した(蛮社の獄)①。(239頁)

渡辺崋山と高野長英はともに尚歯会という蘭学者の勉強会に参加していました。小笠原(無人島)への渡航計画を理由に逮捕されます(こちらは無実)。モリソン号事件を批判したことで、渡辺崋山は永蟄居(のち自刃)、高野長英は永牢(のち脱獄をはかり自刃)に処されます。処分の差は、藩の家老であった渡辺崋山と民間の医者だった高野長英の身分の差です。

正解はです。モリソン号も含め、日本に来航した船は漂流民の送還を口実に交渉をしようとしていました。教科書には引用部分の前段に「日本人漂流民7人を送還して」(239頁)とあります。

なお、渡辺崋山は画家としても知られ、谷文晁らに西洋画法を学んでいます。また、高野長英はシーボルトに医学を学んでいます。

では、他の選択肢を見ていきましょう。

アは「フェートン号事件」が誤り、正しくは「モリソン号事件」です。
イは「釈放された」が誤り
エとオは「シーボルト事件」(245頁 1828年でモリソン号事件より前)

×問9 下線部dに関連して、史料2の大意はどれか

ア 中国の法が悪いわけではないから、日本にもそのまま適応できる。
イ 体格の小さな日本人は、大きな体格の外国人にはかなわない。
ウ 日本の風俗こそが優れているから、外国の礼儀を見習う必要はない。
エ その土地それぞれの風俗に応じて、価値観は異なる。
オ 儒教の聖人のいうことにしたがうと、異変が起こる。

下線部dは「蘭学が物事を相対化する精神を育てていった」として、史料2に( F )=平賀源内の『風流志道軒伝』を引用しています。

史料2では、「礼といへば皆礼なり」「変に応じて作るべし」と書いてあり、土地に応じて価値観が異なるとしているが正解です。

「蘭学が物事を相対化」という視点からみても、他の選択肢は不適切です。

史料の読み取りは国語力の領域でもありますが、早大受験生ならこのくらいの読解はこなしてほしいです。

なお、「教科書だけ」では解けません。

◎問10 幕末の日本に来日して影響を与えた人物 2人

ア モース  イ フルベッキ
ウ ヘボン  エ ベルツ
オ ボアソナード

すべて幕末から明治初期にかけて来日した外国人です。

 慶応期には、幕府がフランスの顧問団をまねき、横須賀に造船所(横須賀製鉄所)の建設を進め、新式の陸軍を訓練した。このほか、開港場の横浜には外国人宣教師や新聞記者が来日し、彼らを通して欧米の文化が紹介された。その宣教師の中には、アメリカ人ヘボンやフルベッキのように英学の教授を通じて、積極的に欧米の文化を日本人に伝えるものも現れた。こうして上位の考えはしだいに改められ、むしろ欧米をみならって近代化を進めるべきだという声が強まっていった。(260頁)太字は引用者による

やや長い引用になりましたが、幕末の科学技術の発展が海外からもたらされ、それが「攘夷」の考えを駆逐していったことを理解することは大切です。一部の過激攘夷派は明治維新期にも外国人襲撃事件などを起こしており、新政府は切腹させるなどの処置で外国と交渉することも多くありました。

さて、正解は、フルベッキヘボンです。

フルベッキはオランダ生まれの宣教師で、1859年に来日して長崎で英学を教授し、1869年からは開成学校(のちの東京大学)に勤務しました。

ヘボンはアメリカ人宣教師で医者。同じく1859年に来日して横浜居留地で医療や伝道をおこないます。日本初の和英辞書『和英語林集成』を出版、ヘボン式ローマ字を考案したことで知られます。1887年、明治学院(現在の明治学院大学)を開設。

モースは1877(明治10)年に来日。大森貝塚の発見で有名。

ベルツは1876(明治9)年に来日。東京医学校・東大で内科・産科を講義。『ベルツの日記』は「大日本帝国憲法発布」の日の記述で頻出史料。

ボアソナードはフランス人法学者で1873(明治6)年に来日。刑法、民法などを起草。個人主義的だとされた民法典論争に巻き込まれ施行が無期延期になる。井上馨の外国人判事登用策を批判した。

残りの3人は明治政府に招請された、いわゆる「お雇い外国人教師」です。

Ⅲはここまでです。◎6○2△0×2でした。史料読み取り問題が×になるのは致し方ないところです。

次回から大問Ⅳに入ります。教育学部おなじみの「沖縄」に関する出題です。

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