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教科書だけで解く早大日本史 2021教育学部 10

2021教育学部編の第10回、今回から大問Ⅳに入ります。テーマは「沖縄」です。教育学部は昔から「沖縄」をテーマにした問題が出題されている感覚があります(調べてないですが)。私は受験生だったころにも1994年の入試で「屋良朝苗」が記述問題で出題されていました。沖縄主席公選は1968年ですから、少し前の出来事くらいの感覚です。いまなら「アメリカ軍兵士の女子小学生暴行事件」をきっかけにした県民の大運動が巻き起こった時の沖縄県知事「大田昌秀」が出題されるくらいの感覚でしょうか。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

◎問1 空欄( A )にあてはまる語 沖縄県の設置

語句補充問題です。問題文では、

明治政府は、廃藩置県で琉球を鹿児島県に編入し、翌年には琉球藩を設置して、最後の国王尚泰を藩王としたが、1879年には、沖縄県の設置を一方的に決めた。これを( A )と呼ぶ。

となっています。

ついで1879(明治12)年には、日本政府は琉球藩および琉球王国の廃止と沖縄県の設置を強行した(琉球処分)①。(273頁)

正解は、琉球処分です。琉球王国は江戸時代以来、実質的には薩摩藩(島津氏)に支配されながら、名目上は清国を宗主国とする複雑な両属関係」(273頁)にありました。維新後、琉球の帰属をめぐって清との争いとなります。台湾出兵などを経て、1879年に政府は沖縄県の設置を強行しました。これが琉球処分です。その後も清とはもめ、アメリカ大統領グラントによる先島分島案などもありましたが、これも拒否しました。

日本領の一部に組み込まれた沖縄でしたが、旧制度は温存され、衆議院選挙の実施は1912(大正元)年でした(273頁 脚注①)。沖縄県で自由民権運動を行った謝花昇などもいました。

△問2 空欄( B )にあてはまる人物 早期講和を天皇に上奏

空欄( B )には、1945年4月の沖縄戦に先立って、2月に早期講和を昭和天皇に上奏した人物が入ります。

教科書で停戦への動きは、鈴木貫太郎内閣が「ソ連に和平交渉の仲介を依頼しようとした」(367頁)ことが書かれているのみです。ソ連はすでに2月のヤルタ会談で対日参戦の密約を交わしていたため、この依頼は成功しませんでした。

教科書ではたどり着けなかったので、「用語集」(山川)を頼りましょう。

近衛上奏文 1⃣太平洋戦争末期の1945年2月14日、近衛文麿が天皇への意見上奏をしたもの。敗戦の必至、日本の共産化の危機を訴え、戦争終結を主張。(用語集336頁L)

正解の人物は、近衛文麿です。近衛文麿は摂家出身で貴族院議長を経て林銑十郎内閣(「何もせんじゅうろう」内閣)の後継として組閣します。成立直後に盧溝橋事件から日中戦争へと突入します。「国民政府を対手とせず」「東亜新秩序」「近衛三原則」の3度の「近衛声明」を出します。国家総動員法もこの内閣です。

いったん退いた後、枢密院議長を経て新体制運動を主導し、米内光政の後継として2度目の組閣をします。北部仏印進駐、日独伊三国同盟、大政翼賛会、日ソ中立条約などがこの内閣です。外相を交代(松岡⇒広田)した第3次内閣は、帝国国策要綱、帝国国策遂行要領を決定、南部仏印進駐などを実行し、10月に東条英機内閣に譲ります。

以後は、「重臣」(元老は西園寺公望の死を以て不在、重臣は元首相などで構成され、若槻、平沼、阿倍、米内、広田、岡田ら)となります。

「近衛上奏文」の狙いは諸説ありますが、昭和天皇の下問で「もう一度戦果を挙げてから」発言につながるものです。

×問3 廃藩置県に関して 正誤判定組み合わせ

① 廃藩置県に先立って、薩長土肥の4藩主が版籍の奉還を願い出て、諸藩のそれに続き、藩主は知事に任命された。
② 薩長土3藩の兵による親兵1万が東京に集められ、その武力を背景に廃藩置県が断行された。
③ 廃藩置県後、薩長土肥4藩出身の士族で政治の中枢を占めた人々は藩閥官僚と呼ばれ、以後政府で実権を握った。
ア ①-正 ②-正 ③-誤
イ ①-正 ②-正 ③-正
ウ ①-誤 ②-正 ③-誤
エ ①-誤 ②-正 ③-正
オ ①-誤 ②-誤 ③-正

版籍奉還と廃藩置県については中学レベルでも学習しますので確実に抑えておきたいところです。戊辰戦争後も旧藩は大名が統治する形で存続していました。

政治的統一をめざす新政府は、残された諸藩も徐々に直接統治に組み込む方針を立て、1869(明治2)年1月、木戸孝允・大久保利通らが画策して、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主に朝廷への版籍奉還①を出願させると、多くの藩がこれにならった。新政府は6月に、これら以外の全藩主にも版籍奉還を命じる一方、旧大名は石高にかえて年貢収入の10分の1に当たる家禄を与え、旧領地の知藩事(地方長官)に任命して、藩政に当たらせることにした(262頁)

やや長く引用しましたが、教科書における版籍奉還の流れは以上です。版(領地)籍(人民)を天皇に返還する一方で、旧大名は依然として領地で知藩事となりました。①の「藩主は知事に任命された」は誤りです。

版籍奉還を実施したものの、軍事と徴税は各藩に委ねられており、新政府は直轄領での年貢徴収を強化したため、一揆が頻発します。また、奇兵隊などの長州藩の一部は武力で鎮圧されます。

新政府は藩制度の全廃をついに決意し、1871(明治4)年、まず薩摩・長州・土佐の3藩から御親兵をつのって軍事力を固めたうえで、7月、一挙に廃藩置県を断行した。すべての藩は廃止されて府県となり②、旧大名である知藩事は罷免されて東京居住を命じられ、かわって中央政府が派遣する府知事・県令が地方行政に当たることとなり、ここに国内の政治的統一が完成した。(262頁)

廃藩置県については以上の通りです。②は正しい文ですが、「親兵1万人が東京に集められ」の部分は教科書では判定できません。「用語集」には「1万人」については記載がありますが、「東京に集められた」かどうかまではわかりません。なお、この御親兵は1872年に近衛兵となり、天皇の警護に当たりました。

こうして新政府は中央集権体制を確立していきます。

新政府内では、三条実美や岩倉具視ら少数の公家とともに、薩長を中心に土肥を加えた4藩出身の若き実力者たちが参議や各省の卿・大輔などとなって実験を握り②、のちに藩閥政府と呼ばれる政権の基礎がほぼ固まった。(263頁)
②薩摩藩からは西郷隆盛・大久保利通・黒田清隆、長州藩からは木戸孝允・伊藤博文・井上馨・山県有朋、土佐藩からは板垣退助・後藤象二郎・佐佐木高行、肥前藩からは大隈重信・大木喬任・副島種臣・江藤新平らが要職についた。(263頁 脚注②)

藩閥政府についての③の文章はほぼ正しい文だと確認できました。しかし、「藩閥官僚と呼ばれ」たかどうかがここでは判定できません。ややあとに民撰議院設立の建白書を板垣・後藤らが提出した際に「有司専制」という言葉で一部の藩閥上級官僚を批判したことが書かれています(275頁)。

薩長土肥のメンバーを見ると、薩長はその後も政府の主要メンバーとなっていくのに対し、土肥のメンバーは下野して自由民権運動に参加するものが多くみられます。大久保・木戸らが岩倉使節団で不在の際に留守政府を預かった主要メンバー(西郷、江藤、副島、板垣ら)が明治六年の政変で下野したことも関係しています。1885年の初代内閣のメンバーはほぼ薩長出身者で構成されています。

②や③の細かい正誤判定ができないことから×評価になってしまいます。

今回はここまでです。



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