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教科書だけで解く早大日本史 2021商学部 5

2021商学部編の第5回です。引き続き2⃣を見ていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。(執筆時未掲載)

※東進データベースは要登録です。(執筆時未掲載)

◎問E 正誤判定組み合わせ 正しいもの二つ

a 建武式目では、土倉の活動を抑制して人々を安心させようとした。
b 正長の土一揆は、京都の酒屋や土倉を襲撃して借金証文を焼き払った。
c 足利将軍家の財産は、公方御倉という京都の複数の有力土倉に委託されるようになった。
d 酒屋役や土倉役は、幕府が酒屋・土倉に夫役提供を命じるものだった。
1.aとb  2.aとc  3.aとd  4.bとc  5.bとd

商学部と言えばの2つの正誤判定組み合わせ問題です。

鎌倉時代後期から都市部から地方まで各地で市が開かれるなど貨幣経済が広がっていきます。

 貨幣経済の発達は金融業者の活動をうながした。当時、酒屋などの富裕な商工業者は、土倉と呼ばれた高利貸し業を兼ねるものが多く、幕府は、これらの土倉・酒屋を保護・統制するとともに、営業税を徴収した。(138頁)

土倉・酒屋などの金融業者は幕府から保護を受けて活動し、営業税を納入しました。この営業税が「土倉役」「酒屋役」です。幕府の重要な財源となりました。

 幕府の財政は、御料所からの収入、守護の分担金、地頭・御家人に対する賦課金などでまかなわれた。そのほか、京都で高利貸しを営む土倉や酒屋に土倉役・酒屋役を課し、交通の要所に関所を設けて関銭・津料を徴収した。(126頁)

ただ、金融業者が高利貸しとして暴利をむさぼれば、反感を受けるのは当然です。正長の土一揆は「京都の土倉・酒屋などを襲って、質物や売買・貸借証文を奪い」(133頁)ました。「この頃の社会には、都市・農村を問わず、土倉などの高利貸し業者が深く浸透していた」(同)ため、土一揆は各地に広がり、実力による債務破棄=私徳政が展開されました。

選択肢をみていきましょう。

aは「土倉の活動を抑制」が誤りです。幕府は土倉の活動を保護しています。次にdは「夫役提供」が誤りです。「夫役」というのは古代で言えば雑徭などの「労役」を指す語です。土倉役や酒屋役は「徴収」とあるように営業税を金銭で支払うものでしたから、「夫役」ではありません。

したがって、aとdが誤りのため、残るbとcが正しい文になります。

bについては説明した通りです。cの「公方御倉」は教科書にありませんが、「用語集」で項目がたっています。

〇問F 南北朝~室町時代の仏教

1. 足利尊氏・直義は南北朝内乱の戦死者をとむらうため、国ごとに安国寺・利生塔をもうけた。
2. 足利尊氏・直義は元に建長寺船を派遣した。
3. 足利尊氏・直義は後醍醐天皇の冥福を祈るため、南禅寺を建立した。
4. 五山制度では、五山の下に十刹と同格の諸山が位置づけられた。
5. 官寺に統轄された僧侶たちは僧録とよばれた。

選択肢ごとに確認していきましょう。

まず、1ですが、「安国寺」「利生塔」に関しては「教科書」に記載がありませんので判断不能です。

2の「建長寺船」を元に派遣したのは足利兄弟ではなく鎌倉幕府です。「1325(正中2)年に建長寺修造の資金を得ようと元に派遣」(127頁 脚注①)したものです。

この先例にならって、足利兄弟が後醍醐天皇の菩提を弔うために夢窓疎石の勧めで派遣したのが、1342(康永元)年の「天竜寺船」です(同上)。3の「南禅寺」は誤りです。

4の「五山制度」は南宋の官寺の制にならったものです。五山の下に十刹をおきました。

「十刹は五山につぐ官寺をいい、さらに十刹についで諸山があった。幕府は僧録をおいて官寺を管理し、住職などを任命した。」(141頁 脚注①)

五山>十刹>諸山という格付けなので、「同格」は誤りです。

また、5の「僧録」の説明も誤りです。

以上から、2~5が誤りであったため、1が正しい文になります。

安国寺は、足利尊氏・直義兄弟が夢窓疎石の勧めで、後醍醐天皇をはじめとする元弘の変以降の戦死者をとむらうために国ごとに建立した寺です。利生塔も建設されました。

安国寺というと、戦国時代に毛利氏の外交を担った安国寺恵瓊を思い出す人もいるのではないでしょうか。

◎問G (後醍醐天皇の)所領に対する権限の確認をすべて( ト )で行おうとする無理な手法

1.院宣  2.院庁下文  3.宣旨  4.令旨  5.綸旨

後醍醐天皇がおしすすめた「新政」は従来のやり方に固執せず、武家社会の通例を導入した貴族政治という新しい手法でした。一方で、そのやり方は武家社会の伝統も公家社会の伝統も損なうもので、それが両朝分裂という事態を引き起こす原因ともなります。

天皇は、幕府も院政も摂政・関白も否定して、天皇への権限集中をはかり、すべての土地所有権の確認は天皇の綸旨を必要とするという趣旨の法令を打ち出した。(121頁)

鎌倉時代にも所領をめぐる裁判は多く、幕府は引付を増員して対応するなど苦慮しました。後醍醐帝の綸旨万能主義は武家の慣習を無視したため不満が高まりました。

「二条河原落書」では、「此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 偽綸旨」と揶揄されました。「二条河原落書」は七五調の軽快なリズムで覚えやすいので、ぜひジッタリンジンのプレゼントの節に乗せて歌ってみてください。

今回はここまでです。


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