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教科書だけで解く早大日本史 2021人間科学部 5

2021人間科学部編の第5回です。引き続き鎌倉時代から出題された大問Ⅱを見ていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

◎問3 アイヌ文化圏との交易の拠点

ア 多度津  イ 酒田  ウ 秋田  エ 十三湊  オ 直江津

「鎌倉時代には北条氏被官の安藤氏が蝦夷ヶ島のアイヌ文化圏との交易を通じて栄えた」として、交易の拠点を選択する問題です。

古代に東北地方を根拠地とした蝦夷(えみし)は度重なる征討や奥州藤原氏の支配などで倭人化していきます。奥州藤原氏の打倒によって成立した東国政権である鎌倉幕府は東北地方北部までを当初の支配領域としていました。

一方で、蝦夷が島と呼ばれた現在の北海道では、続縄文文化を経て擦文文化やオホーツク文化が広がっていました。

それを経て13世紀にはアイヌの文化が生まれるようになり、津軽の十三湊を根拠地として得宗の支配下にあった安藤(安東)氏との交易をおこなっていた。(109-110頁)

正解は、エの「十三湊」でした。

十三湊でやり取りされた北海の産物は畿内へ日本海交易で送られます。15世紀になると和人は蝦夷が島南部に進出して道南十二館を築いて勢力を拡大し、元から蝦夷が島に住んでいたアイヌの人びとと対立し、コシャマインの乱などがおこります。

アの多度津は香川県、イの酒田は山形県、ウの秋田は秋田県、オの直江津は新潟県です。酒田は江戸時代の日本海交易の拠点として栄えます。


◎問4 「新補地頭とは、( 4 )兵乱の時、没収の地を以て、所領等を充て給わる事なり」

ア 治承  イ 承久  ウ 文治  エ 寿永  オ 元弘

空欄補充問題です。該当なしは「カ」を選ぶ問題です。

まずは「新補地頭」を確認しておきましょう。

(承久の)乱後、…また、上皇方についた貴族や武士の所領3000余カ所を没収し、戦功のあった御家人らをその地の地頭に任命した②。(102頁)
② 乱後に新しく地頭をおく際に、これまでに給与が少なかった土地では、新たに基準(新補率法)を定めて新補地頭の給与を保障した。その基準とは、(1)田畑11町ごとに1町の土地、(2)田地1段につき5升の米(加徴米)、(3)山や川からの収益の半分、をそれぞれ地頭に与えるものであった。(102頁 脚注②)

新補地頭とは「承久」の乱後に上皇方についた貴族や武士から奪った所領に新たに地頭として任じられたもので、旧来の本舗地頭は各地で収入に差があったの対し、新補率法では引用の通り新たな基準が設けられました。

正解は、もちろんイの「承久」です。選択肢に正解がなければ、「カ」を選ぶ問題でしたが、ここはそれを気にするレベルの問題ではありませんでした。

新補率法の「段別5升の加徴米」と、1185年に地頭を設置した際の「段別5升の兵糧米」と間違えないようにしましょう。


〇問5 「鎌倉幕府の法」に関して 正しいもの1つ

ア 御成敗式目は幕府が定めた裁判規範であり、全17ヵ条にわたる。
イ 御成敗式目には、道理とよばれた公家社会の慣習が取り入れられた。
ウ 御成敗式目以外に幕府が定めた単行の法令を、式目追加とよぶ。
エ 御成敗式目には女人養子のことなど、律令法をそのまま写した内容も含まれている。
オ 室町幕府は御成敗式目を否定して、あらためて建武式目を定めた。

下線部bは「鎌倉幕府の法」です。これはもちろん1232(貞永元)年に作られた御成敗式目(貞永式目)のことを指しています。

 1232(貞永元)年には、御成敗式目(貞永式目)51ヵ条を制定して、広く御家人たちに示した。この式目は頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武士社会での慣習・道徳にもとづいて、守護や地頭の任務と権限を定め、御家人同士や御家人と荘園領主とのあいだの紛争を構成に裁く基準を明らかにしたもので、武家の最初の整った法典となった。(102頁)

御成敗式目は頼朝以来の先例や道理と呼ばれる武家社会の慣習・道徳に基づいて定められ、その権限は幕府の勢力範囲におよびました。

一方で、朝廷の公家法や荘園の本所法はなくならずに残っていました。北条泰時は六波羅探題にいた弟の北条重時にあてた書状で、

「武家の人へのはからひのためばかりに候。これによりて、京都の御沙汰、律令のおきて、聊もあらたまるべきにあらず候也」(北条泰時書状)

と書いて、朝廷に対し理解を求めるように伝えています。

しかし、幕府の勢力が伸長するにつれて公平な裁判を重視する武家法の影響は広がっていきました。後醍醐天皇が「朕の新儀は先例」と称して公平さを欠く裁定を続けたとき、多くの武士は後醍醐天皇に反旗を翻しました。

では、選択肢を見ていきましょう。

アの「全17ヵ条」は誤りです。引用にある通り「全51ヵ条」です。聖徳太子の「憲法十七条」以来、17の倍数が用いられており、51=17×3となっています。

イは「公家社会の慣習」が「武家社会の慣習」の誤りです。

ウの「式目追加」については、御成敗式目の史料が掲載されている「教科書」103頁の脚注に説明があります。

① その後、必要に応じて発布された個別の法令は式目追加と呼ばれ、のちの室町幕府の法令も、建武年間以後の式目追加という意味で建武以来追加と呼ばれた。これは御成敗式目が室町幕府のもとでも基本法典としての生命をもっていたことを示している。(103頁 脚注①)

そういうわけで、正解はウです。また、オの「室町幕府は御成敗式目を否定」の誤りも確認できました。

最後に、エの「女人養子のこと」ですが、こちらは「御成敗式目」の史料でも確認できます。「右、法意の如くばこれを許さずと雖も」とあり、律令制下では許されていないことだが、頼朝以来認められてきた、としています。

今回はここまでです。



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