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教科書だけで解く早大日本史 2021文化構想学部 4

2021文化構想学部編の第4回です。今回から〔Ⅱ〕に入ります。「陰陽師」を題材にした晴夫さんと明子さんの対話文形式のリード文を元に、日本の文化や政治についての幅広いテーマ史が出題されています。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

◎1 古墳時代におこなわれた、熱湯に手を入れ火傷の具合で真偽を判定する神判は何か

漢字指定の記述問題です。

穢れをはらい、災いを免れるための禊や祓、鹿の骨を焼いて吉凶を占う太占の法、さらに裁判に際して、熱湯に手を入れさせ、手がただれるかどうかで真偽を判定する神判の盟神探湯などの呪術的な風習もおこなわれた。(山川詳説日本史B 31頁 以下、ページ数のみの引用はすべて同じ)

正解は、「盟神探湯」です。漢字指定でしたので、しっかり漢字で書けるようにしておかなければいけません。教科書では呪術的風習の例として、鹿の骨を利用した太占の法も挙げられています(※「鹿」の骨です)。

盟神探湯の例として有名なのは、『日本書紀』の「竹内宿禰」の盟神探湯です。三韓と結んで応神天皇への反乱を目論んでいるとの疑いをかけられた竹内宿禰が盟神探湯で疑いをはらったといわれます。

※竹内宿禰の後裔を名乗る某予備校日本史講師によれば、正しい盟神探湯の方法が口伝されているそうです。真偽のほどは不明なので盟神探湯してみたらいいと思います。

〇2 古代律令国家の官制について 正しい文1つ

ア 式部省は宮中の警護を担当した。
イ 衛門府は地方の治安維持を担当した。
ウ 神祇官は神職や僧侶の活動を監視した。
エ 左右弁官局は太政官の事務を担当した。
オ 大納言のもとに左大臣と右大臣が置かれた。

正しい文を1つ選択する問題です。

試験問題には誤りがあり、アの選択肢で「警護」とすべきところを「儀式」となっておりました。試験前に修正の告知があったようです。

中央行政組織には、神々の祭祀をつかさどる神祇官と行政全般を管轄する太政官の二官があり、太政官のもとで八省が政務を分担した。行政の運営は、有力諸氏から任命された太政大臣・左大臣・右大臣・大納言などの太政官の公卿による合議で進められた。(41頁)

教科書42頁の律令官制表をもとに確認していきましょう。

太政大臣(則闕の官、常時いるわけではない)、左大臣(一の上、事実上の太政官トップ)、右大臣、大納言が公卿を構成し、大納言の下に少納言と左右の弁官がおかれています。

左弁官の下に中務省(詔書の作成など)、式部省(文官の人事など)、治部省(仏事・外交事務など)、民部省(民政・財政など)の4官がおかれ、右弁官の下に兵部省(軍事・武官の人事など)、刑部省(裁判・刑罰など)、大蔵省(収納・貨幣など)、宮内省(宮中の事務など)の4官がおかれました。

さらに、風俗の取り締まりにあたった弾正台(のち検非違使庁に役割を吸収される)、宮城の警備などに当たった五衛府(衛門府、左右衛士府、左右兵衛府)がありました。

まずこの時点で、の式部省が宮中の警護を担当したが誤りだとわかります。宮中の警護は五衛府(衛士)の担当です。そしての衛門府が地方の治安維持を担当したという文も誤りです。そして、の大納言のもとに左右大臣が置かれたという文も正反対の誤りです。

残るは、ウとエです。神祇官は「神々の祭祀をつかさどる」役割であり、「僧侶の活動を監視した」の部分は怪しいところです。実際に僧尼、仏事などを管理したのは治部省でした。治部省は外交事務などとともに仏事の管理も行っていたことは42頁の表にある通りです。したがって誤文です。

正しい文でした。大納言のもとにおかれた少納言局と左右の弁官局は太政官の事務を担当し、左右弁官がそれぞれ4官ずつを管理していました。

八省の役割まで聞いてくるところはさすがに早稲田大の日本史ですが、弁官局の役割は知っておいた方が良いでしょう。なお、中納言は「令外官」です。

△3 ( A )が書いた日記である『御堂関白記』、
九条兼実の日記である『( B )』

ア A- 藤原頼通 B- 玉葉
イ A- 藤原頼長 B- 台記
ウ A- 藤原頼長 B- 小右記
エ A- 藤原道長 B- 台記
オ A- 藤原道長 B- 玉葉

空欄補充の選択問題です。『御堂関白記』の著者と九条兼実の日記がそれぞれ問われました。

②10世紀以降、朝廷での儀式・行事の比重が増大したこともあって、貴族はその様子を漢字を用いて日記に詳細に記録した。藤原道長の『御堂関白記』は、自筆のものが現存している。(73頁 脚注②)

まず(A)に入る人物は「藤原道長」だとわかります。藤原道長は実際には関白をしていません(内覧、摂政、太政大臣)が「御堂関白」は道長の呼び名です。以後、道長流の系統は「御堂流」と呼ばれます。

藤原頼通は道長の嫡子。50年にわたって摂関を務め、藤原氏の全盛期を築きますが、摂関政治は彼の代で終わりを迎えます。

もう一人の藤原頼長は、保元の乱の際の左大臣で、兄の藤原忠通と藤氏長者の座をめぐって争いました。氏長者は荘園の管理者であったため、その後継争いはし烈なものとなりました。

残るは(B)です。九条兼実の日記が『台記』か『玉葉』かです。

教科書で「九条兼実」に書かれているのは、113頁の「その教え(※法然の教え 引用者注)は摂関家の九条兼実をはじめとする公家のほか、武士や庶民にまで広まった」という鎌倉仏教の部分、そして115頁の脚注②で、『愚管抄』を記した慈円が九条兼実の弟であるという部分です。

九条兼実の日記については記述がありませんでした。

九条兼実の日記は『玉葉』です。

九条兼実は藤原北家御堂流が分かれた五摂家(はじめは三摂家)の九条家の祖です。鎌倉時代初期に頼朝と友好的な関係を築きます。京では議奏(公卿)の役職について鎌倉を支援しました。子の九条良経が頼朝の姪と結婚し、その孫がのちの4代将軍藤原頼経です。

法然の『選択本願念仏集』は兼実の求めにより法然が説いた書です。

選択肢のもう一方である『台記』は藤原頼長の日記でした。

今回はここまでです。

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