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教科書だけで解く早大日本史 2021文化構想学部 9

2021文化構想学部編の第9回です。今回で〔Ⅲ〕が終了します。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

◎7 (天保期)江戸に流入した貧民に帰郷などを命じる( B )の法

漢字3字指定の空欄補充問題です。

(水野)忠邦は享保・寛政の改革にならい、まず将軍・大奥も含めた断固たる倹約令を出して、ぜいたく品や華美な衣服を禁じ、庶民の風俗もまた厳しく取り締まった。ついで江戸の人別改めを強化し、百姓の出稼ぎを禁じて、江戸に流入した貧民の帰郷を強制する人返しの法を発し、天保の飢饉で荒廃した農村の再建をはかろうとした。(239頁)

正解は、「人返し」でした。寛政の改革の際に松平定信が出した「旧里帰農令」が「正業をもたないものに資金を与えて農村に変えることを奨励した」(233頁)のに対し、忠邦の人返しの法は「帰郷を強制」するものでした。その結果、江戸にいた無宿人(家のない人)は江戸周辺にとどまり、江戸周辺の治安はますます悪化していきました。

〇8 横山源之助が著した著書

漢字7字指定の記述問題です。

ここから近現代に入ります。1880年代以降、松方デフレのもとで、土地を失った農民などが大都市に流入します。

産業革命期の労働者がおかれた悲惨な状態については、1888(明治21)年、雑誌『日本人』が高島炭鉱(長崎県、三菱経営)の労働者の惨状を報じて大きな反響を呼んだほか、横山源之助の『日本之下層社会』(1899年刊)や農商務省編『職工事情』(1903年刊)に記されている。(306頁 脚注②)太字は引用者による

正解は、「日本之下層社会」でした。東京の貧民社会の生活事情をまとめたものです。著者の横山源之助は農商務省の嘱託となり『職工事情』調査にも参加しています。

〇9 大地震(関東大震災)について 誤文2つ

ア 家屋倒壊を中心とする地震被害で、東京・横浜は壊滅的な打撃を受けた。
イ 大震災の際、労働運動家や無政府主義者らが殺害される事件が発生した。
ウ 大震災の際、戒厳令下で発生した虎の門事件により山本権兵衛内閣は総辞職した。
エ 大震災後、震災恐慌がおこり、これが金融恐慌へとつながっていった。
オ 当初の震災復興計画は、財政難などを理由として大幅に縮小された。

誤文を2つ選択する問題です。関東大震災については2020年の社会科学部でも出題されています。

※問9が関東大震災の問題です。

関東大震災の中身とそれと同時に起こった「市民・警察・軍がともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使した」ことについては、上記リンクの2020社会科学部編6の問9で引用してある通りですので、そちらでご確認ください。

「東京市・横浜市の大部分が廃墟と化した」要因は「地震と火災」です。家屋倒壊も大規模にありましたが、やはり火災のダメージが大きく、アは不十分な記述です。

についても上記リンクで引用した通り、河合義虎らの労働運動家が軍に殺害された亀戸事件、大杉栄と伊藤野枝そして大杉の甥までもが憲兵により殺害された甘粕事件が発生します。イは正しい文です。

ウ以降は震災後の出来事です。

1923(大正12)年に成立した第2次山本権兵衛内閣も(※男子普通選挙)導入の方針を固めていたが、関東大震災と、その後の虎の門事件②による総辞職で立ち消えとなった。(331頁) ※は引用者
虎の門事件② 1923(大正12)年、無政府主義の一青年難波大助が、摂政の裕仁親王(のちの昭和天皇)を虎の門付近で狙撃した事件。摂政宮は無事だったが、内閣は責任をとって総辞職、難波は翌年大逆罪で死刑となった。(331頁 脚注②)

虎の門事件が戒厳令下で発生したかどうかまではわかりませんが、第2次山本権兵衛内閣が虎の門事件の責任を取って総辞職したことはわかります。

ただ、虎の門事件は「大震災の際」に発生した事件ではないので、ウは誤文です。

ついで1923(大正12)年には、日本経済は関東大震災で大きな打撃を受けた。銀行は、手持ちの手形が決済不能になり、日本銀行の特別融資で一時をしのいだが、不況が慢性化する中、決済は進まなかった。(339頁)

関東大震災を受けて、「震災恐慌」がおこりますが、教科書では「震災恐慌」という語は使用されていません。

その後1927(昭和)年、議会で震災手形の処理法案を審議する過程で、片岡直温蔵相の失言から一部の銀行の危機的な経営状況が暴かれ、ついに取り付け騒ぎがおこって銀行の休業が続出した(金融恐慌)。(339頁)

では、「震災恐慌」時に乱発した震災手形の処理をめぐって「金融恐慌」がおこるという時系列は正しく書かれています

金融恐慌時の首相は若槻礼次郎(Ⅰ)でした。加藤高明首相の急死を受けての組閣でしたが、経営破綻した鈴木商店に対して巨額の不良債権を抱えていた台湾銀行を緊急勅令で救済しようとするも、枢密院に反対されて挫折します。次の田中義一内閣が3週間のモラトリアム(支払猶予令)を出してようやくしずめます。この際、急いで紙幣を印刷したため、表面のみの印刷で裏が白い紙幣が出回ったことでもしられます。

の震災復興計画については教科書の記述はありません。大正期に丸ビルなどの鉄筋コンクリート造のオフィスビルが出現したこと、関東大震災後に同潤会アパートが東京・横浜にできたことなどは書いてありますが、復興計画の詳細は不明です。

誤文がすでに2つ確定しているので、オが正しい文になります。

台湾総督府で民政長官として植民地行政を担当した後藤新平は、のちに初代満鉄総裁、鉄道院総裁、逓信相、内相、外相、東京市長を経て、第2次山本内閣で内相兼帝都復興院総裁として関東大震災後の東京復興計画にあたりました。この復興によって東京や横浜は近代的な都市へとかわりました。ただ後藤新平の復興計画は各省の反対にあい、不祥事なども重なって大幅に縮小されることになりました。

〇10 「空襲」について

ア 航空機は第二次世界大戦で初めて戦争に登場した。 
イ 日本は日中戦争時、中国の重慶などに対して空襲を繰り返した。
ウ アメリカ軍は開戦当初からB29による日本本土への空襲を繰り返した。
エ アメリカ軍は空襲の目的を軍事施設や工業施設の破壊に限定していた。
オ 大都市部では空襲の被害を避けるため小学生が集団で地方に疎開した。

正しい文を1つ選択する問題です。

の航空機は「第二次世界大戦」ではなく「第一次世界大戦」の新兵器です。中学生の教科書には、「戦車」「航空機」「毒ガス」が新兵器の例として挙げられているのですが、高校の日本史Bの教科書(山川日B309)には書かれていません。

ですが、日中戦争が南京陥落後も終結せず、「国民政府は南京から漢口、さらに奥地の重慶に退いて抗戦を続けた」(353-354頁)は書かれています。そして、364頁の「太平洋戦争要図」という地図資料で「重慶」のところに「日本軍の空襲・挺身攻撃の対象地」を示す「ミサイル」のマークが書かれていることから、重慶に空襲をおこなっていたことがわかります。

ウも誤りです。「1944(昭和19)年後半以降、サイパン島の基地から飛来する米軍機による本土空襲が激化」(366頁)します。これは、同年7月にサイパン島が陥落したことにより、日本本土まで航空機の燃料がもつようになったことが要因です。「1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲ではB29爆撃機が下町の人口密集地を中心に約1700トンの焼夷弾を投下し、一夜にして約10万人が焼死」(同上)しました。

「空襲は当初軍需工場の破壊を目標としたが、国民の戦意喪失をねらって都市を焼夷弾で無差別爆撃するようになった。都市では、建築物の強制取り壊しや防空壕の掘削がおこなわれ、軍需工場の地方移転、住民の縁故疎開や国民学校生の集団疎開(学童疎開)も始まった。」(同上)

は「無差別爆撃」になるので誤りです。

また、オも誤りです。オの誤りの部分は「小学生」です。

 教育面では、1941(昭和16)年には小学校が国民学校に改められ、「忠君愛国」の国家主義的教育が推進された。(360頁)

当時、小学校は国民学校という名前に改められており、教科書に書かれている通り「国民学校生の集団疎開」が正しい表現です。

かなり細かい話のように思えますが、中学の定期考査で「女子中学生が勤労動員された」のようないい加減な選択肢とならんで「小学生が集団疎開した」を誤りにするような問題が出題されていたりするので、よく注意が必要です。(※)戦前に女子「中学」生はおりません。「女学校生」が正しい。

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これで〔Ⅲ〕は終了です。◎6〇4というセットでした。

次回から、最終〔Ⅳ〕に入ります。日本の貿易の歴史についてのテーマ史です。


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