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教科書だけで解く早大日本史 2021社会科学部 5

1993年まで社会科学部の入試日程は2/25でした。これは国公立大学の前期日程と同じ日だったため、国立大との併願ができませんでした。1994年に2/24に繰り上がったことで、東京大などとの併願も可能になりました。

さて、今回から大問Ⅱに入ります。「文化」に関する短めのリード文がついており、設問は近世がやや多めですが、古代から近代までの範囲で出題されています。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

〇問1 土着の信仰や神道に関して 不適切1つ

イ 神社の境内に神宮寺を建て、寺院の境内に守護神を鎮守としてまつる神仏習合の風潮がみられた。
ロ 本地垂迹説とは、神は仏が仮に形をかえてこの世に現れたものとする考えである。
ハ 度会家行は、本地垂迹説の流れを継承し、神本仏迹説を唱えた。
ニ 吉田兼倶は、神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道を創始した。
ホ 山崎闇斎は、神道を儒教流に解釈して垂加神道を説いた。

選択肢は神仏習合に関わるものと、3人の神道家についてのものです。まずは神仏習合についてみてみましょう。

神仏習合とは「仏と神は本来同一である」(57頁)とする思想で、奈良時代に生まれました。

 8世紀頃から、神社の境内に神宮寺を建てたり、寺院の境内に守護神を鎮守としてまつり、神前で読経する神仏習合の風潮がみられたが、平安時代に入るとこの傾向はさらに広まっていった。(66頁)

平安時代中期の摂関期には、天台・真言の2宗が現世利益を求める貴族と強く結びついた「一方で神仏習合がさらに進み、仏と日本固有の神々とを結びつける本地垂迹説③も生まれ」(73頁)ました。

③ 神は仏が仮に形をかえてこの世に現れたもの(権現)とする思想で、のちには天照大神を大日如来の化身と考えるなど、それぞれの神について特定の仏をその本地として定めることがさかんになった。(73頁 脚注③)

神仏習合と本地垂迹説については以上です。はいずれも正しい説明です。

鎌倉時代になると、神道も鎌倉仏教の影響を受けます。

また神仏習合の考えが広まるとともに、鎌倉時代末期になると、鎌倉仏教の影響を受けた独自の神道理論が、伊勢下宮の神官度会家行①によって形成され、伊勢神道(度会神道)と呼ばれた。(116頁)

度会家行わたらいいえゆきは『類聚神祇本源』を著して、従来の本地垂迹説は仏が神の姿になって権現したとするが、そうではなく、「神を主として、仏を従とする神本仏迹説」をとなえました(116頁 脚注①)。

の「本地垂迹説の流れを継承し」は不適切です。「本地垂迹説と反対の立場」(同上)でした。

吉田兼倶は室町時代の人です。

吉田兼倶は反本地垂迹説(神本仏迹説)にもとづき、神道を中心に儒学・仏教を統合しようとする唯一神道を完成した。(145頁)

山崎闇斎は江戸時代の人です。朱子学の一派から出た山崎闇斎は神道を儒教流に解釈して垂加神道を説きました。

① 垂加は闇斎の別号。これまでの伊勢神道・唯一神道や吉川惟足に始まる吉川神道などを土台にしたもので、道徳性がきわめて強い。神の道と天皇の徳が一体であることを説くことから闇斎一門の崎門学は、尊王論の根拠ともなった。(214頁 脚注①)


◎問2 奈良時代の仏教に関して 不適切2つ

イ 法相宗の義淵は行基ら多くの門下を育てた。
ロ 良弁は唐・新羅の僧から成実を学んだ。
ハ 室生寺金堂がつくられた。
ニ 正式な僧侶となるための受戒は戒壇で行なわれた。
ホ 薬師寺には、僧尼を統轄する僧綱が置かれた。

「奈良時代の仏教」についての設問です。内容が正しくても「奈良時代」でなければ不適切です。

奈良時代の仏教は教義研究が盛んにおこなわれ、三論・成実・法相・倶舎・華厳・律の南都六宗と呼ばれる学系が形成されました。

法相宗の義淵は玄昉・行基ら多くの門下を育て、華厳宗の良弁は唐・新羅の僧から華厳を学び、東大寺建立に活躍した。また、入唐して三論宗を伝えた道慈も大安寺建立などの事業に活躍した。(56頁)

法相宗の義淵が行基らを育てたとする正しい文、良弁ろうべんが唐・新羅の僧から「成実じょうじつ」を学んだとする誤りでした。

法相宗は唐で道昭が玄奘に学んで伝来し、義淵、行基らが輩出しました。

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良弁は華厳宗の僧です。東大寺が華厳宗の総本山で、廬舎那仏は華厳宗の教主です。

の室生寺金堂は奈良時代のものではなく、平安初期のものです。時代が違うため不適切です。

天台・真言両宗がさかんになると、神秘的な密教芸術が新たに発展した。建築では、寺院の堂塔が山間の地において、以前のような形式にとらわれない伽藍配置でつくられた。室生寺の金堂などは、その代表である。(66頁)

正しい説明です。正式な僧侶となるためには受戒が必要で、その方法は鑑真によって伝えられました。受戒の場として戒壇が設けられ、東大寺の他、761(天平宝字5)年には遠方の受戒者のために、筑紫観世音寺(以前に玄昉が左遷)、下野薬師寺(のち道鏡が左遷)に設けられ、「本朝三戒壇」と称されました(57頁 脚注①)。

正しい文です。僧尼を管理する僧綱については「用語集」にありますが、薬師寺に置かれたことは書かれていません。僧尼令といっしょに僧綱もおさえておくとよいでしょう。


今回はここまでにします。


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