教科書だけで解く早大日本史 2021文化構想学部 3
2021文化構想学部編の第3回です。〔Ⅰ〕の後半、問8~10です。かなり細かい正誤判定ですが、教科書だけで解けるのでしょうか?
※大学公式ページで問題を確認してください。
※東進データベースは要登録です。
◎8 武家諸法度に違反したとして1619年に改易
ア 加藤忠広 イ 本多正純 ウ 福島正則
エ 松平忠直 オ 豊臣秀頼
武家諸法度の「無断での居城の修理や新規の築城を禁じた」条に違反したとして改易された大名を選択する問題です。
武家諸法度(元和令)
一 諸国ノ居城修補ヲ為スト雖モ、必ズ言上スベシ。況ンヤ新儀ノ構営堅ク停止令ムル事。・・・(『御触書寛保集成』)(171頁)
元和令は1615(元和元)年に出されたもので、家康が金地院崇伝に起草させたものですが、発布された時の将軍は2代秀忠です。将軍の代替わりに繰り返し発布されていますが、3代家光、4代家綱、5代綱吉時の改定が重要です。
また、1619(元和5)年、福島正則を武家諸法度違反で改易するなど、法度を遵守させるとともに、長く功績のあった外様大名をも処分できる将軍の力量を示した。(171頁)太字は引用者による
正解はウの福島正則です。福島正則は加藤清正らとともに「賤ケ岳の七本槍」と称された武将の1人です。秀吉の子飼いの武将でしたが、関ヶ原の戦いで東軍(家康側)につき安芸・備後を領有します。しかし、広島城の無断改修の罪で改易されました。
オの豊臣秀頼は秀吉の息子で大坂の役で家康に滅ぼされました(170-171頁)。
ア、イ、エの3人はそれぞれ改易されています。
アの加藤忠広は加藤清正の子で肥後熊本城主でしたが、1632年に改易されました。改易の理由ははっきりしていませんが、九州地方には旧豊臣家臣の外様大名が多く、その勢力を削ぐ目的だったと思われます。
イの本多正純は老中本田正信の長男で宇都宮城主。秀忠の執政でしたが、反対派の策謀で1622年に改易されます(「宇都宮城に釣り天井を仕掛けて秀忠の暗殺を目論んだ」とされるが、実際はそうでない可能性もある)。
エの松平忠直は越前藩主で家康の次男結城秀康の長男。幕府に対して反抗的であることから1623年に改易されました。
このように外様の大大名、譜代の大幹部、家康の孫である親藩最高クラスまで改易することで将軍家の権力の強さを示しました。
△9 幕末にフランス式築城法で箱館に建設された( B )
漢字指定の記述問題です。
幕末、箱館、城郭といえば、正解はもちろん「五稜郭」です。
翌1869(明治2)年5月には、箱館の五稜郭に立てこもっていた旧幕府海軍の榎本武揚の軍も降伏し、国内は新政府によってほぼ統一された。(261頁)太字は引用者による
ただ教科書には五稜郭が洋式築城法による建築物だとは書いてありません。ちなみに中学の教科書には写真資料付きで掲載されております。
五稜郭は戊辰戦争最後の舞台として幾度もドラマ化・映画化されていますし、函館の観光名所でもありますので、一度は訪れてみるとよいでしょう。
△10 1873年に置いた鎮台の所在地でないのはどれか
ア 仙台 イ 金沢 ウ 大阪 エ 広島 オ 熊本
鎮台の所在地でないものを選ぶ問題です。
軍事制度では、1871(明治4)年に廃藩に先立って政府直轄軍として編成された御親兵を近衛兵とし、天皇の警護に当てた。また、廃藩とともに藩兵を解散させたが、一部は兵部省のもとで各地に設けた鎮台に配置し、反乱や一揆に備えた。翌1872(明治5)年、兵部省は陸軍省・海軍省に分離した。
教科書で鎮台についてふれられている部分は以上です。6つの軍管区に区分されておかれた鎮台の所在地は、1871年に4鎮台(東京、大阪、鎮西、東北)、1873年に徴兵令発布とともに名古屋、広島を加えて6鎮台となりました。最初に設置された鎮西鎮台、東北鎮台はそれぞれ熊本、仙台におかれていました(用語集 230頁L)。
鎮台の所在地でないのは、イの金沢です。
今回はここまでです。〔Ⅰ〕の内訳は、◎6〇0△3×1でした。細かい部分が教科書に記載されていないことが多い大問でした。
次回から〔Ⅱ〕に入ります。文化をテーマにした問題です。
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