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教科書だけで解く早大日本史 2021社会科学部 14

社会科学部の学際は学問分野ではもちろんですが、OB・OGとして「悪魔」から「魔法少女」まで実に多様な人材を世に送り出してきました。

それではⅣの続きを見ていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

◎問3 日清戦争に関する記述 不適切1つ

イ 開戦までに陸軍の師団制導入など軍事力の増強が進められていた。
ロ 戦費は当時の国家歳入の2倍を超えた。
ハ 日本軍は清国の北洋艦隊を撃破し、根拠地の威海衛を占領した。
ニ 日本の勝利を受けてイギリスが条約改正に応じ、日英通商航海条約が調印された。
ホ 戦後清国から日本に支払われた賠償金の半分以上が軍備拡張費に充てられた。

まずは日清戦争の中身を確認しておきましょう。1884(明治16)年の甲申事変の翌年に締結された天津条約で日本の朝鮮に対する影響力が低下するなか、1894(明治27)年におきた甲午農民戦争に朝鮮国の求めに応じて清国が出兵すると、日本も対抗して出兵して交戦状態に入りました。

豊島沖海戦、黄海海戦など海上の戦いや朝鮮国内での戦いを有利に進めた日本軍は、「遼東半島を占領し、清国の北洋艦隊…根拠地の威海衛を占領」(290頁)し、戦いは日本軍の勝利に終わりました。

日本全権伊藤博文・陸奥宗光、清国全権李鴻章とのあいだで下関条約が結ばれ、朝鮮独立の承認、遼東半島・台湾・澎湖諸島の譲渡、賠償金2億テール、4港(沙市・重慶・蘇州・杭州)の開港などを取り決めました。

以上が、おおよその経緯です。それでは選択肢をみていきましょう。

こちらは、がはっきりと不適切です。日英通商航海条約の調印は日清戦争の直前です。「日本の勝利を受けて」ではありません。

当初は日本の出兵に批判的だったイギリスも、日英通商航海条約に調印すると態度を変えたので、国際情勢は日本に有利になった。同年8月、日本は清国に宣戦を布告し、日清戦争が始まった。(290頁)

残りの選択肢はすべて正しい文です。

の師団制導入は1888(明治21)年です。「陸軍の編制が、国内治安対策に主眼を置いた従来の鎮台から師団に改められ」(290頁 脚注①)ました。

の戦費については、「日清戦争の戦費は約2億円余りで、当時の国会歳入の約2倍強という多額」(290頁 脚注④)でした。軍事費増徴に批判的だった政党も「開戦と同時に政府批判を中止し、議会は戦争関係の予算・法律案をすべて承認」(290頁)しました。

は先の引用の通りです。

の賠償金の使途については、「教科書」291頁に「日清戦争の賠償金の使途」という円グラフが掲載されています。賠償金特別会計のうち軍備拡張費は62.0%を占めました。


◎問4 北清事変に関する記述 不適切1つ

イ 義和団が北京の列国公使館を包囲したことが契機となり、8か国連合軍が出兵した。
ロ 清国降伏後に締結された北京議定書により、列国は北京公使館区域への軍隊の駐留を承認させた。
ハ 連合軍に参加した日本の軍事力が評価された。
ニ この事変で清国が降伏した影響により朝鮮では親日政権が成立した。
ホ この事変を契機としてロシアは満州を事実上占領した。

日清戦争で敗れた清国は列強の「狩り場」と化します。沿岸部の都市が次々に租借地となり、列強による中国分割が進みました。当然清国国内で外国に対する反発が強まります。

 1900年に入ると、清国では「扶清滅洋」をとなえる排外主義団体義和団が勢力を増して各地で外国人を襲い、北京の列国公使館を包囲した(義和団事件)。清国政府も義和団に同調して、列国に宣戦を布告した(北清事変)。日本を含む列国は、連合軍を派遣し、義和団を北京から追って清国を降伏させ、翌年には清国と北京議定書①を結んだ。(294頁)

以上が、義和団事件から北清事変に至る経緯です。

正しい文です。引用にある「連合軍」が選択肢にある「8か国連合軍」です。教科書には連合軍の兵士たちが並ぶ写真資料が掲載されています。ちなみにこの写真には「9人」並んでいますが、イギリスと英領インドは1か国として数えています。

正しい文です。北京議定書の中身については脚注に書かれています。

① これにより、列国は清国政府に対し、巨額の賠償金と首都北京の公使館所在区域の治外法権、および公使館守備隊の駐留などを承認させた。(294頁 脚注①)

正しい文なのですが、「教科書」にはありません。

主力となった日本の軍事力の有用性が列国に評価された(「極東の憲兵」)(「用語集」259頁R)。

不適切です。北清事変の時点ですでに朝鮮は大韓帝国と改称し、親露政権が成立していました。

 宗主国であった清国の日清戦争における敗北は、朝鮮の外交政策にも影響を与え、ロシアの支援で日本に対抗する動きが強まり、親露政権が成立した②。この政権は、日本に対抗する意味もあって、1897年、国号を大韓帝国と(韓国)改め、朝鮮国王も皇帝を名乗った。(294頁)

閔妃(高宗の王妃)の台頭で追いやられた大院君(高宗の実父)は壬午軍乱による復権にも失敗しましたが、1894年の日本軍の王宮占拠でいったん復権します。しかし、再び閔妃に追いやられ、朝鮮では親露政権が成立します。これを覆すために大院君を再擁立しようとした駐朝公使三浦梧楼は閔妃を殺害して大院君の親日政権を樹立します。王妃を殺害された国王の高宗はロシア公使館に逃れ、再び親露政権が樹立されます。

正しい文です。

 北清事変を機にロシアは中国東北部(「満州」)を事実上占領し、同地域における独占的権益を清国に承認させた。(294頁)

征韓論あたりから韓国併合までの朝鮮(韓国)政府の態度は整理しておくとよいでしょう。

今回はここまでです。



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