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教科書だけで解く早大日本史 2021商学部 12

2021商学部編の第12回です。4⃣の残りを見ていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。執筆時未掲載

※東進データベースは要登録です。執筆時未掲載

◎問G 「陸奥伯」が外務大臣を務めた時代に結ばれた条約 正しいもの2つ

1. 欧米列強の最恵国待遇が廃止された。
2. 外国人居留地が廃止された。
3. 駐英公使青木周蔵によりロンドンで調印された。
4. 台湾や尖閣諸島、澎湖諸島などが日本に割譲された。
5. 朝鮮が日本の属国となることが認められた。

下線部への「故陸奥伯」とは、第2次伊藤内閣の外務大臣である陸奥宗光のことです。外務大臣として陸奥宗光がかかわったのは、日清戦争の講和条約である下関条約(馬関条約)、そして治外法権の撤廃を実現した日英通商航海条約の調印(日清戦争開戦の直前)です。

したがって、この2つの条約について内容を確認しておけばよいということになります。

 その後、第2次伊藤内閣の外相陸奥宗光は、自由党の支持によって国内の改正反対の声をおさえ、日清戦争直前の1894(明治27)年、領事裁判権の撤廃と関税率の引上げ、および相互対等の最恵国待遇を内容とする日英通商航海条約の調印に成功した。(288頁)

選択肢1~3がこの条約に関わる(と思われる)内容です。

このうち、1の「最恵国待遇が廃止」がはっきりと誤りです。不平等条約下での「片務的最恵国待遇」(日本だけが負う)から「相互対等の最恵国待遇」へと変わったのであって、「廃止」されたわけではありません。

2と3については教科書の記述では確認できませんので、とりあえず「保留」しておきましょう。

次に下関条約について確認しておきましょう。

戦いは日本の勝利に終わり、1895(明治38)年4月、日本全権伊藤博文・陸奥宗光と清国全権・李鴻章とのあいだで下関条約が結ばれて講和が成立した。
 その内容は、(1)清国は朝鮮の独立を認め、(2)遼東半島および台湾・澎湖諸島を日本にゆずり、(3)賠償金2億両(当時の日本価で約3億1000万円)を日本に支配らい、(4)新たに沙市・重慶・蘇州・杭州の4港を開くこと、などであった。(291頁)

選択肢4、5をみると、4にある「尖閣諸島」は下関条約で日本に割譲されたものではありません。1895年に日本が領有を宣言したもので、それ以前に清国が領有していた事実はありません。

また、5の「朝鮮が日本の属国」も誤りです。ただしくは「朝鮮の独立」を認めたものです。清国が朝鮮の宗主国であった状態から、朝鮮が完全な独立国になる、すなわち日本の進出に口出ししないというものです。

4と5は誤りでした。したがって、「保留」していた2と3が正しい文でした。

日英通商航海条約は、1894年に駐英公使青木周蔵(元外相)と英国外相キャンバレーの間でロンドンで調印されます。ここに「居留地の廃止」が含まれています(『用語集』254頁L)。

1、4、5の誤りは教科書本文で確定できますので◎評価です。


△問H 「自由党」に所属した人物の著作 正しいもの2つ

1. 『経国美談』
2. 『三酔人経綸問答』
3. 『佳人之奇遇』
4. 『蹇蹇録』
5. 『民権自由論』

下線部ト「自由党」に所属していた人物の著作を2つ選ぶ問題です。

問Bで引用したように『経国美談』は立憲改進党の矢野竜渓による政治小説です。

政治小説では立憲改進党系の政治家でもあった矢野竜渓の『経国美談』や東海散士の『佳人之奇遇』などがある。(312頁 脚注②)太字は引用者による

1.『経国美談』は矢野竜渓、3.『佳人之奇遇』は東海散士の著作です。矢野竜渓は立憲改進党、東海散士は憲政党に所属しました。

残る3つのうち、5の『民権自由論』が自由党の植木枝盛の著作です。

1879(明治12)年には植木枝盛の『民権自由論』などの民権思想の啓蒙書も刊行され、運動の広がりに大きな影響を与えた。(277頁 脚注②)

植木枝盛は私擬憲法の「東洋大日本国国憲按」の作者でもあり、(立憲)自由党の衆議院議員としても活躍しました。他に『天賦人権弁』などがあります。

教科書で確定できるのはここまでです。

2の『三酔人経綸問答』は岩倉使節団とともにフランスに留学、帰国後に啓蒙思想を日本に紹介した中江兆民(土佐藩出身)の作です。教科書には、ルソーの『社会契約論』を漢文調で訳した『民約訳解』があげられています。『三酔人経綸問答』は洋学紳士、豪傑君、南海先生の3人が酒を酌み交わしながら日本の進むべき道を論じたものです。『用語集』の中江兆民の項に著作として書かれています。

4の『蹇蹇録』は陸奥宗光の回顧録。こちらも『用語集』の陸奥宗光の項にあります。

2と4は『用語集』が必要でしたので△評価ですが、『三酔人経綸問答』はともかくとして、『蹇蹇録』は早稲田大日本史では頻出事項で毎年のようにどこかの学部で出題されています。過去問演習をするとたびたび出会うことでしょう。


◎問I 「( チ )の後に至て終に公然提携」「板垣伯に( リ )の椅子を与へて」

1. チ 日清戦争  リ 内務大臣
2. チ 日露戦争  リ 内務大臣
3. チ 日清戦争  リ 外務大臣
4. チ 日露戦争  リ 外務大臣
5. チ 日清戦争  リ 衆議院議長

空欄補充問題です。

 候は窃かに故陸奥伯の手を通じて自由党と提携するの端を啓き、( チ )の後に至て終に公然提携の実を挙げ、板垣伯に( リ )の椅子を与えて、一種の連立内閣を形成したりき…

陸奥外相は条約改正交渉成功のために国内の反対派をおさえるために自由党と秘密裏に提携します。その後、第2次伊藤内閣は自由党と公然提携をして、板垣退助を入閣させます。

日清戦争の勝利と三国干渉は、政府と政党の関係を大きく変化させた。自由党は第2次伊藤博文内閣を公然と支持して板垣退助を内相として入閣させ、軍備拡張予算を承認し…(291-292頁)

第2位伊藤内閣の時期ですから、チは「日清戦争」です。また、板垣は内相=内務大臣として入閣しますので、リには「内務大臣」が入ります。

正解は1でした。板垣退助は第2次伊藤内閣と第1次大隈重信内閣で内相として入閣します。廃藩置県後に参議→征韓論で下野→大阪会議で参議復帰→下野して民権運動など政府内外を出たり入ったりします。


◎問J 「彼の藩閥の私生児たる( ヌ )が、民党と連合して」

1. 立憲帝政党
2. 軍部
3. 立憲政友会
4. 吏党
5. 大成会

第2次伊藤内閣が自由党と公然提携したことに最も反感を抱いたのは

「藩閥武断の一派にして、彼の藩閥の私生児たる( ヌ )が、民党と聨合して極力(伊藤)内閣の攻撃を事としたる」

選択肢には政党3つ、勢力が2つ並んでいます。「藩閥の私生児」「藩閥武断の一派」とあるので、2の軍部もあっさり消去するわけにはいきません。

一方、すぐに消せるのは3の立憲政友会です。立憲政友会が伊藤博文を総裁として結成されるのは1900年のことです。第2次伊藤内閣よりあとのことです(292頁)。

また、1の立憲帝政党は国会開設の詔がでた1882年に福地源一郎と党首に結成されていますが、「民権派に対抗できるほどの勢力にはなれず、翌年に解党」(278頁)しています。

残るは2の軍部、4の吏党、5の大成会です。

 ついで成立した「元勲総出」の第2次伊藤博文内閣は、民党第一党の自由党と接近し、1893(明治26)年には天皇の詔書の力もあって海軍軍備の拡張に成功した。しかし、政府と自由党の接近に反発する立憲改進党など残存民党は、かつての吏党である国民協会と連合し、条約改正問題で政府を攻撃したので、政府と衆議院は日清戦争直前の第六議会まで対立を繰り返した。(286-287頁)太字は引用者による

正解は、4の「吏党」でした。国民協会は1892年に西郷従道、品川弥次郎らによって結成されます。元は吏党の大成会です。

4⃣は以上です。◎7〇1△2でした。判定以上に厳しい問題が多かったように思います。



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