見出し画像

教科書だけで解く早大日本史 2021社会科学部 13

さらに社学では2009年からは新カリキュラムが導入されています。高度な専門性と学際性というスペシャリストとゼネラリストを養成する学部に沿ったものになっています。

画像1

では、今回からⅣに入ります。「ある人物」の日記である【史料A】を使って日清・日露戦争の時代を出題しています。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

△問1 「内閣」に関して 適切なもの2つ

イ 1885年に太政官制を廃して内閣制度が創設された。
ロ 内大臣は宮中に、宮内大臣は内閣に置かれた。
ハ 明治憲法は内閣総理大臣およびその他の国務大臣により構成される組織として内閣を規定した。
ニ 明治憲法下では各国務大臣は天皇および議会に対して責任を負うものとされた。
ホ 最初の内閣である第1次伊藤内閣は閣僚のほとんどが薩長出身者で占められ、藩閥内閣といわれた。

ヨーロッパに派遣されて憲法研究を行った伊藤博文は帰国すると1884(明治17)年に華族令を定めて華族の範囲を拡大し、「ついで1885(明治18)年に太政官制を廃して内閣制度を制定」(283頁)しました。

 これにより、各省の長官は国務大臣として自省の任務に関して天皇に直接責任を負うだけでなく、国政全体に関しても総理大臣のもとに閣議の一員として直接に参画するものとなった。また、宮中の事務に当たる宮内省(宮内大臣)は内閣の外におかれ、同時に天皇御璽(天皇の印)・日本国璽(日本国の印)の保管者で天皇の常時輔弼の任に当たる内大臣が宮中におかれた。初代総理大臣の伊藤博文は同時に宮内大臣を兼任したが、制度的には府中(行政府)と宮中の区別が明らかとなった。(283頁)

ここまでで、適切不適切(おそらく)不適切となります。明治憲法下では内閣と議会に関係がなく、各国務大臣は「天皇に直接責任を負う」(単独輔弼責任)制度でした。

また、ですが、そもそも大日本帝国憲法には「内閣」という規定がありません。「国務大臣」は第55条(第54条)にでてきますが、内閣はあくまで天皇が指名した内閣総理大臣が国務大臣を率いて組織するもので、憲法上の規定ではありません。「教科書」には憲法の条文が抜粋しか掲載されていないので、こちらは確認不可です。

最後にですが、こちらは正しい文です。ただ、明治政府が薩長藩閥政府であることは「教科書」でふれられているのですが、第1次伊藤内閣に限定しては書かれていません。実際には、逓信大臣(榎本武揚・幕臣)、農商務大臣(谷干城・土佐)を除いてほぼすべての大臣が薩長出身者でした(「用語集」248頁R)。

初代内閣のメンバーは頻出ですので資料集などで確認しておくと良いでしょう。


◎問2 「地租増徴案」に関連して 不適切2つ

イ 2.5パーセントであった地租の税率引き上げを目的とするものであった。
ロ 第1次山県内閣は政費節減と地租増徴を主張した。
ハ 第3次伊藤内閣時に地租増徴案に反対した自由党と進歩党が合同して憲政党が結成された。
ニ 第2次山県内閣時に地租増徴案が成立した。
ホ 第2次山県内閣は憲政党が地租増徴案に反対したことを受け、政党の影響力を排除する目的で文官任用令を改正した。

地租改正は1873(明治7)年に実施され、地租は地価の3%とされました。これに対して地租改正反対一揆が巻き起こるのは1876(明治9)年です。この年は徴兵制反対一揆(血税一揆)、学制反対一揆なども起こっており、それに加えて、「低米価のもとで過去の高米価も含めて平均した地価を基準に地租を定めることに反発する大規模な農民一揆」(275頁)が発生します。「①まず茨城県で、ついで三重・愛知・岐阜・堺の4県にわたって反対一揆が発生し、政府は軍隊を出動させてこれを鎮圧」(276頁 脚注①)しました。政府は翌1877(明治10)年に地租を3%から2.5%に軽減します。「竹槍で ドンとつき出す 二分五厘」といわれました。

1890年代に入ると企業勃興に入りますが、所得税や法人税などの税収はまだ少なく、軍事費も日清戦争、戦後と高騰し続けたため、安定した収入を得られる地租の増徴は政府の課題でもありました。しかし、議会では民党が地租増徴に抵抗し、「民力休養」を訴えたため、なかなか地租増徴は実現しませんでした。

【史料A】は「1898(明治31)年」「憲政党内閣」とあるので、第1次大隈重信内閣=隈板内閣の時です。この内閣は当初から旧自由・進歩両党の対立があったうえに、尾崎行雄文相の「共和演説事件」で旧自由党系から反発が大きくなり、「憲政党は憲政党(旧自由党系)と憲政本党(旧進歩党系)に分裂し、内閣はわずか4ヵ月で退陣」(292頁)します。

 かわった第2次山県内閣は、憲政党の支持を得て地租増徴案を成立させた。また、政党の影響が官僚におよぶの防ぐために、1899(明治32)年に文官任用令を改正し、翌1900(明治33)年には政党の力が軍部におよぶのをはばむために軍部大臣現役武官制を定め、現役の大将・中将以外は陸・海軍大臣に慣れないことを明記した。(292頁)太字は引用者によるものあり

第2次山県内閣によって、地租は2.5%から3.3%となりました。

それでは選択肢をみていきましょう。

正しい文ですが、「教科書」には軽減後の税率である2.5%が出てきませんので保留にします。

の第1次山県内閣は、第一議会の際の内閣です。この時に「政費節減・民力休養を主張する民党」(286頁)に攻撃されますが、山県は「主権線」と「利益線」の防衛のために陸海軍増強が必要だとし、民党のうち立憲自由党を切り崩して予算を成立させました。この選択肢は不適切です。

保留です。憲政党結成の理由は、第2次伊藤内閣で取り込んだ自由党が総選挙でのび悩んだため、第3次伊藤内閣が「自由党との提携をあきらめて超然主義に戻った」(292頁)ことでした。「これに対し、自由・進歩両党は合同して憲政党を結成」(同上)します。伊藤内閣が地租増徴案をだし、自由党がそれに反対したかどうかはわかりません。

正しい文です。

不適切です。第2次山県内閣は「憲政党の支持を得て地租増徴案を成立」(292頁)させました。

の2つが不適切でしたので、保留は解除です。ハは総選挙の前段階として伊藤内閣の地租増徴を含めて増税案に自由党が反対したため、衆議院を解散して総選挙になったという経緯がありました。こちらは「用語集」で確認できます。

第2次山県内閣の行ったことは頻出事項ですが、第3次伊藤内閣の顛末はやや細かい知識でした。

今回はここまでです。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?