見出し画像

教科書だけで解く早大日本史 2021社会科学部 3

社会科学部が誕生したのは1966年です。のちに「早大闘争」と呼ばれる学費値上げ反対運動が始まった年でした。全国的な学園紛争の先駆けとなりました。

さて、2021社学編の第3回です。Ⅰの続き、明治時代の問を見ていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

◎問6 電力事業に関連して 不適切2つ(※)

イ 明治政府は官営の電源開発株式会社を設立し、佐久間などの水力発電所を建設した。
ロ 明治中期には、琵琶湖疎水による蹴上水力発電所の成功などによって、生産動力の電化も進んだ。
ハ 明治末期には、水力発電の本格稼働により、大都市のほとんどの家に電灯が普及した。
二 日露戦争開戦にあたり、明治政府は電力(国家)管理法を公布し、国家統制を強化した。
ホ 大正時代、猪苗代水力発電所から田端変電所まで、215㎞をつなぐ長距離送電に成功した。

(※)大学より「選択肢に正解として扱うことができるものが指定数より多くありましたので、そのいずれの2つを選択した場合も得点を与えることとします」と発表がありました。

電力事業に関する出題はめずらしいですが、2021年の商学部で電力の普及不足により、大型機械の販売が進まなかったことが出題されていました。

選択肢ごとにみていくことにしましょう。

不適切です。「電源開発株式会社」「佐久間などの水力発電」はともに第二次世界大戦後のことです。

電力業は、1951(昭和26)年に発電から配電までの一貫経営をおこなう、民有民営形態の地域別9電力体制に再編成され②、1952(昭和27)年に設立された電源開発株式会社が、電力不足をおぎなうため佐久間や奥只見で大規模な水力発電所を建設した。(393頁)

現在の、東京電力、中部電力などの地域別会社となったのは戦後のことで、戦前は国策会社の日本発送電会社が統制していました。

(国家総動員法と)同時に制定された電力国家管理法は、民間の電力会社を単一の国策会社に一挙に統合するもので、政府が私企業への介入を強めるきっかけとなった。(355頁)

したがって、の「日露戦争開戦にあたり」「電力(国家)管理法」は不適切となります。

さて、時代違いではっきりとした不適切が2つありましたので残りは正しい…としたいところですが、実は残り3つのなかに怪しいものが含まれていました。

それが、です。「明治末期には」「大都市のほとんどの家に電灯が普及した」とあるのですが、これはやや「言い過ぎ」です。

水力発電の本格的な開始によって電力事業が勃興し、大都市では電灯の普及が始まった。(304頁)

にある、1891年に開業した琵琶湖疎水による蹴上水力発電所の成功によって、生産動力の電化がようやく始まり、明治末期には大都市部で電灯の普及が「始まった」のでした。「ほとんどの家に電灯が普及した」はこの時点でかなり怪しい説明です。

1911(明治44)年には帝国劇場が竣工し、…。この頃には、電灯とガスが(東京)市内全世帯の半分に普及した。(317頁 コラム「東京の変容」)

明治末の1911年で東京「市内全世帯の半分に普及」とありますので、「ほとんどの家に電灯が普及した」はアウトです。

よって、不適切となりました。試験後、大学側から正解にできる選択肢が他にもあったことが発表されています。

ロは前述の通り正しい文です。ただ、琵琶湖疎水のことは「教科書」にはありません(「用語集」269頁L)。

また、正しい文です。大正時代になると長距離大規模送電に成功し、電灯は農村部へ普及し、工業原動力の蒸気力から電力への転換が進みます。

(第一次世界)大戦前から発達し始めていた電力業では、大規模な水力発電事業が展開され、猪苗代・東京間の長距離送電も成功し、電灯の農村部への普及や工業原動力の蒸気力から電力への転換を推し進め、電気機械の国産化も進んだ。(323頁)

「教科書」にある「猪苗代・東京間」の東京が「田端変電所」なのですが、これは「用語集」にもありませんでした。「田端」はJR山手線の駅にもあり、東京近郊の人には想像しやすかったでしょう。地方出身者に厳しい出題傾向はここにもでてきました。


〇問7 足尾銅山鉱毒事件に関して 不適切1つ

イ 明治政府は鉱毒予防工事を銅山に命じたが、操業は停止させなかった。
ロ 被害民が集団陳情のため上京しようとするも警官隊と衝突し、数十名が検挙された。
ハ 内村鑑三、木下尚江らの知識人・言論人は、被害民を支援するキャンペーンを展開した。
二 衆議院議員の田中正造は、天皇に直訴したため不敬罪で投獄された。
ホ 明治政府は鉱毒防止策として、谷中村を廃村とし、遊水地を建設した。

幕末には廃鉱同然だった足尾銅山は1877(明治10)年に古河市兵衛によって買い取られました。その後、製銅額が飛躍的に発展した一方で、渡良瀬川流域の農業業に深刻な被害をもたらす鉱毒汚染が発生しました。

 これに対し被害地の村民は、1897(明治30)年以来、蓑笠・草鞋ばきで大挙して上京し、数回にわたって陳情を試みたが、1900(明治23)年には警官隊と衝突して数十名が逮捕された。栃木県選出の衆議院議員田中正造は、議会で政府に銅山の操業停止をせまった。また木下尚江らの知識人とともに世論の喚起につとめた。政府も鉱毒調査会を設けて鉱毒予防工事を銅山に命じたが、操業は停止させなかった。そこで、1901(明治34)年に田中は議員を辞職し、天皇に直訴を試みたが、果たせなかった。政府は1907(明治40)年、被害と洪水を緩和するために、渡良瀬川と利根川の合流地点に近い栃木県の谷中村を廃村として住民を集団移転させ、遊水地にした。しかし、田中はこれを不服とする住民とともに谷中村に残り、1913(大正2)年に亡くなるまで、そこに住んで政府に抗議し続けた。(307頁 コラム「田中正造と足尾鉱毒事件」)

かなり長い引用になってしまいましたが、選択肢の内容をこれですべて網羅しています。

不適切なものは、です。

田中正造の天皇直訴は「果たせなかった」のであり、「天皇に直訴したため不敬罪で投獄」されていません。もし直訴が実現していれば、警備に当たったものの処罰だけでなく、内閣総辞職になっていたかもしれません。政府は「直訴未遂」ですら認めたくなかったのでしょう。田中は拘留されますが、おとがめなしで釈放されています。「直訴そのものが存在していない」という結論です。

その他はすべて引用部分にある通りです。唯一、の「内村鑑三」だけが引用部分にありません。足尾鉱毒事件のキャンペーンには、キリスト教徒の立場から内村鑑三、社会主義者から木下尚江・幸徳秋水らが協力しました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?