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教科書だけで解く早大日本史 2021社会科学部 12

社学の学際を支えているのは、なんといっても「社会科学総合研究」です。1年時からさまざまな社会科学の分野について専門に近いレベルの講義を受講できる魅力はいまもかわらず続いています。

さて、Ⅲの残りをみていきます。

※大学公式ページで問題を確認してください。

※東進データベースは要登録です。

◎問9 戦前の政党政治に関して 不適切1つ

イ 普通選挙法によって全人口比で約20%が選挙人となった。
ロ 原敬内閣は全閣僚が立憲政友会員からなる政党内閣であった。
ハ 加藤高明内閣から犬養毅内閣まで政党内閣が続いた。
ニ 1942年総選挙で鳩山一郎は非推薦候補として当選した。
ホ 大政翼賛会は町内会・部落会を傘下に収めた。

戦前の政党政治に関する出題です。初期議会では民党が数的優位を占めることが多く、第2次伊藤内閣は自由党の板垣を内相に、第2位次松方内閣は進歩党の大隈を外相に迎えるなどして政党を取り込みました。第3次伊藤内閣が超然主義に戻ると、その退陣後、初の政党内閣である憲政党の第1次大隈内閣(隈板内閣)が成立し、1900(明治33)年の立憲政友会結成後は、伊藤や西園寺公望など政友会総裁が組閣することもありました。

第2次大隈内閣のあとを受けた寺内正毅内閣は「非立憲=ビリケン」とあだ名されることから政党を排除したように思われがちですが、実際は「立憲政友会の原敬と立憲国民党の犬養毅ら、政党の代表を取り込み、これに閣僚を加え、外交政策の統一をはかるためとして、臨時外交調査委員会を設置」(324頁)していました。

米騒動の責任を取って寺内内閣が辞任すると、原敬内閣が成立します。従来、原内閣は「初の本格的な政党内閣」という表現が用いられてきました。隈板内閣も陸相海相以外は憲政党員が占めましたが、わずか4ヵ月で崩壊してしまいました。

さて、この「陸相海相以外」というのが大切で、第1次山本権兵衛内閣で軍部大臣現役武官制が改正され、「予備役・後備役の大・中将にまで」(319頁)資格が広げられたとはいえ、陸相海相は陸海軍から選出される決まりでした(実際には現役からしか就任例はありません)。

そうなると、の「全閣僚が立憲政友会員」ということは原則上ありえないことになります。実際に原内閣は陸相と海相、そして外相(内田康哉)が立憲政友会員ではありませんでした。

※後に組閣する田中義一は陸軍出身(第2位山本権兵衛内閣で陸相)で立憲政友会総裁でしたが軍部大臣を兼任していません。

残りの4つはすべて正しい文です。

の全人口比は332頁の表「おもな選挙法の改正」で確認できます。1925年の改正で20.8%に拡大しました。

も正しい文です。

 こうして1924(大正13)年の第1次加藤高明内閣の成立から、1932(昭和7)年の五・一五事件で犬養毅内閣が崩壊するまでの8年間、二大政党である立憲政友会と憲政会(のちの立憲民政党)の総裁が交代で内閣を組織する「憲政の常道」が続いた。(333頁)

の鳩山一郎は戦後、3次にわたって組閣し日ソ国交樹立、国際連合加盟などを実現しました。戦前は斎藤実内閣の文部大臣として滝川事件にかかわっています。1942(昭和17)年4月の総選挙(翼賛選挙)では「鳩山一郎・尾崎行雄・芦田均・片山哲らが推薦を受けずに立候補」(363頁 脚注②)しました。

も正しい文です。1940(昭和15)年10月に結成された大政翼賛会は、

総裁を総理大臣、支部長を道府県知事などとし、部落会・町内会・隣組を下部組織とする官製の上意下達機関となった。(360頁)

のちにはあらゆる団体がその傘下におさまることになりました。

原敬内閣の閣僚について「教科書」本文に明記はありませんが、制度上明らかなため◎評価とします。


〇問10 戦後の政党政治に関して 不適切2つ

イ 改憲をめざす保守勢力と護憲を掲げる革新勢力が対立した。
ロ 自由民主党総裁のうち、首相にならなかったのは谷垣禎一のみである。
ハ 自由民主党が結成されたことを受けて、日本社会党右派と左派の統一が実現した。
ニ 1955年から現在まで党名が変わっていない国政政党は自由民主党と日本共産党のみである。
ホ 日本社会党から民主社会党と社会民主連合が分立した。

戦後の政党政治に関する問題です。

まず、については、巻末の政党・政派の変遷で確認できます。

自由民主党は1955(昭和30)年の結党後、離脱者や脱党者はいましたが、党自体がなくなったり党名変更をしたりしていません。政党レベルの離脱では、1976(昭和51)年河野洋平の新自由クラブ(のち解散、河野洋平は復党し、のち総裁)、1993年小沢一郎、羽田孜ら竹下派の一部が離党して結成した新生党などがあります。1993年からの一時期と、2009年から2012年にかけての期間以外は政権与党の座についています。この野党時代の総裁が、河野洋平谷垣禎一です。自由民主党総裁で首相になっていないのは「谷垣禎一のみ」ではなく「河野洋平・谷垣禎一の2人」です。いまのところは。

また、日本共産党は1922(大正11)年の結成以来一度も党名の変更をしていない政党です。2022年に創立100年となります。堺利彦・山川均らによる党創立ののち、解党主義によっていったん解党しますが、すぐに再結成されます。治安維持法下の弾圧で幹部が次々と逮捕(や拷問によって殺害)され、1933(昭和8)年の宮本顕治の逮捕で事実上活動不能に陥ります。戦後、活動を再開しますが、ソ連・中国の干渉によって1950年に所感派と国際派に分裂し、50年代末に統一を回復します。以後、前進と後退を繰り返しながら現在まで野党として国会に議席を保持しています。

戦後の日本社会党は、戦前の無産政党の流れを汲んで成立します。新憲法公布後初の総選挙で第一党となり、片山哲が三党連立内閣の首班として首相に就任します。しかし、講和条約をめぐる左右両派の対立から分裂に至り、1955(昭和30)年に左右両派が再統一して日本社会党になります。以降、1993年まで野党第一党の地位を占めますが、1960(昭和35)年には右派の西尾末広らが民主社会党(のち民社党)を結成、1978(昭和53)年には田英夫らの社会民主連合(社民連)が離脱します。1993(平成5)年に非自民非共産の細川護熙内閣に与党として参加しますが、のち連立を離脱。1994(平成6)年には自民党(と新党さきがけ)と連立し、委員長の村山富市を首班とする自社さ連立内閣が誕生します。1996(平成8)年に社会民主党と党名を変更して現在まで存続していますが、自民党との連立で支持を失い、現在では衆参に数議席のみの小政党になっています。

ここまでで、不適切正しいことがわかりました。

もう一つの不適切な選択肢はです。

 1955(昭和30)年2月の総選挙で、社会党は左右両派あわせて改憲阻止に必要な3分の1の議席を確保し、10月には両派の統一を実現した。保守陣営でも、財界の強い要望を背景に、11月、日本民主党と自由党が合流して自由民主党を結成し(保守合同)、初代総裁には鳩山一郎が選出された。ここに形式上で二大政党制が出現したが、保守勢力が3分の2弱、革新勢力が約3分の1の議席を占め、保守一党優位のもとでの保革対立という政治体制(55年体制)が成立し、以後40年近く続くことになった。(388-389頁)

時系列では、左右両派の社会党が統一→保守合同により自由民主党結成です。

イは正しい文でした。


Ⅲは以上です。◎4〇5△1でした。

次回から大問Ⅳに入ります。

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